啄木の風景 生誕120周年記念企画
評論 筆者・桜井健治氏
素顔の啄木像
生涯年表 桜井健治氏監修
<1> 来道以前
<2> 北海道時代
<3> 東京時代
<4> 没後
啄木を偲ぶ歌碑・施設

<1> 来道以前
□岩手時代□

1886年(明治19年)2月20日
 岩手県南岩手郡日戸村(現・盛岡市玉山区日戸)の曹洞宗日照山常光寺の住職、石川一禎の長男として生まれる。「一(はじめ)」と、命名された(戸籍上の誕生日は2月20日だが、旧暦の1885年10月27日=新暦12月4日=生まれともいわれる)。ただ、啄木が誕生した当時、一禎は、啄木の母カツを入籍していなかった。1892年9月3日に、入籍され、啄木も工藤姓から石川姓となった。兄弟は長姉サダ、次姉トラ、妹光子。

10月14日
 後に啄木の妻となる堀合セツ(節子)が、南岩手郡上田村(現・盛岡市上田)で誕生。

1887年(明治20年)3月
 隣村の渋民村、宝徳寺の住職が亡くなったのに伴い、一禎が住職となり、一家は渋民村に移った。啄木は生涯、渋民村を故郷と呼ぶことになった。
「かにかくに渋民村は恋しかりおもひでの山おもひでの川」

1891年(明治24年)年5月2日
 戸籍の年齢より1歳早く、渋民尋常小学校へ入学。

1895年(明治28年)3月
 渋民尋常小学校を卒業。

4月
 盛岡高等小学校へ入学。上級生には、当時4年生に金田一京助がいた。校長は後に「岩手日報」の主筆となる新渡戸仙岳。

1898年(明治31年)4月18日
 岩手県盛岡尋常中学校の入学試験に合格。4月25日に入学。

1899年(明治32年)4月
 校名が岩手県盛岡中学校に変更。この年、盛岡女学校に通っていた堀合節子と出会う。

1900年(明治33年)
 このころ、金田一京助から「明星」を借りて読み、野村長一(胡堂)らの影響もあって文学に傾倒。

1901年2月(明治34年)
 3、4年生の間で校内刷新運動が盛り上がり、啄木の学級もストライキを決議。啄木らが起草した具申書を校長に提出。

12月3日
 岩手日報に「翠江」のペンネームで活字となった最初の作品「迷ひくる春の香淡きくれの欄に手の紅は説きますな人」など25首が掲載される。中学時代はほかに「麦羊子」(ばくようし)「白蘋」(はくひん)のペンネームを使っていた。

1902年(明治35年)4月17日
 学年末試験でカンニングを行い、けん責処分を受ける。

7月15日
 第一学期末試験で再びカンニングを行い、けん責処分を受ける。

10月1日
 「明星」に「血に染めし歌をわが世のなごりにてさすらひここに野にさけぶ秋」が、「白蘋」の名前で掲載される。

10月27日
 成績が悪化、欠席も多いため卒業が危うくなり、この日「家事上の都合に依り」との理由で退学願を提出、承認される。

10月30日
 文学で身を立てようと、東京へ向けて渋民村を出発。

□第一次東京時代□

1902年(明治35年)11月2日
 盛岡中学校の先輩、細越夏村の紹介で小石川区小日向台町3丁目93番地の大館みつ方に下宿。

11月9日
 「明星」の投稿で縁があった新詩社の集いに参加。翌10日に与謝野鉄幹、晶子夫妻を訪ねる。

1903年(明治36年)2月26日
 雑誌「文芸界」への就職に失敗。体調を崩し、生活も窮乏したため、父一禎に迎えられて帰郷。

11月1日
 「明星」の社告に、石川白蘋(はくひん)を新詩社同人に迎えたことが掲載される。

12月1日
 「明星」に、石川啄木の名で「愁調」5編が掲載される。これが「啄木」名でのデビュー。

1904年(明治37年)2月3日
 啄木の母カツが結納を持参して、堀合節子との婚約整う。

2月10日
 日本がロシアに宣戦布告。9月5日に講和条約調印。

3月3日
 2月10日に開戦した日露戦争に関する評論「戦雲余録」を岩手日報に8回連載。当時は、幸徳秋水ら反戦派を批判。

9月
 与謝野晶子、「明星」に「君死にたまふこと勿れ」を発表。

10月2日
 上京に先立ち、金策のために小樽中央駅長の山本千三郎に嫁いだ次姉トラを訪ねる。

写真
1905年に出版された処女詩集「あこがれ」。写真は函館で知り合った橘智恵子に送った贈呈本。中表紙に毛筆で「己かれにのぞみて 橘女史に捧ぐ 四十年九月十二日 著者」と記されている=函館市文学館収蔵のレプリカ。実物は親族が所蔵
10月26日
 父一禎が宗費113円を滞納したために、宗門から宝徳寺住職の地位を追われる。その後、啄木にとっても大きな負担となっていく。

10月31日
 処女詩集「あこがれ」刊行のために上京。

1905年(明治38年)1月15日
 一禎の処分が宗報で告示される。

3月2日
 一家は宝徳寺を出て、渋民村大字芋田に移転。

5月3日
 処女詩集「あこがれ」を小田島書房より刊行。

□第2次岩手時代□

1905年(明治38年)5月12日
 父一禎が、啄木と節子の婚姻届を盛岡市役所に提出。

5月30日
 新郎啄木が欠席のまま結婚式を挙げる。この間、啄木は仙台に宿泊。

6月4日
 啄木は盛岡に帰り、盛岡市帷子小路にて両親と妹光子とともに新婚生活をスタート。

9月5日
 啄木が主幹・編集人となり、文芸誌「小天地」刊行。金田一京助、与謝野鉄幹、正宗白鳥らの作品を掲載。資金問題で継続できなかった。

1906年(明治39年)2月17日
 函館駅長となった義兄、山本千三郎宅へ次姉トラを訪ね、一家の窮状や資金繰りを相談するが、打開はできなかった。

2月25日
 長姉、田村サダが嫁ぎ先の秋田県鹿角郡で肺結核のため死亡。

3月4日
 妻節子と母カツを連れて渋民村に戻る。

4月14日
 渋民尋常高等小学校の代用教員に採用され、初出勤。月給は8円だった。

7月3日
 夏目漱石、島崎藤村の小説に影響を受ける。小説「雲は天才である」を書き始めたが、中途のままにして8日から「面影」を執筆。

11月22日
 活字となった初の小説「葬列」を脱稿。12月、「明星」に掲載される。

12月3日
 盛岡中学校校友会雑誌向けに、当時の学校教育を批判した評論「林中書」を脱稿。翌年3月に掲載。

12月29日
 長女京子が誕生。出生届けは翌年1月1日。

1907年(明治40年)1月1日
 函館の同人雑誌「紅苜蓿(べにまごやし)」(苜蓿社=ぼくしゅくしゃ)に「公孫樹」「かりがね」「雪の夜」の3編を発表。

3月
 曹洞宗の恩赦を得た一禎が住職に復職できるよう、滞納した宗費の弁済に奔走するが、結局、見通しが立たず、断念。一禎は師である、野辺地・常光寺の住職を頼って家を出る。このころ、妹光子も学費の支払いに困って、盛岡女学校を退学。

(敬称略)