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井上ひさしの作品に「泣き虫なまいき石川啄木」という戯曲がある。センチメンタルな作風とは裏腹に、人間・石川啄木の実像は高慢で、嘘つきで、借金だらけの生活破綻者だったともいわれるが、なぜか憎めない青年でもあったようだ。はたして「われらが隣人」としての啄木は、どのような素顔だったのだろうか。啄木研究者の桜井健治さんに尋ねてみた。
(聞き手・メディア委員 田村晋一郎) |
| <1> 文学編 |
素顔の啄木像 ―石川啄木研究者・桜井健治さんに聞く |
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赤貧の文学者 昭和に開花
明治39年(1906)7月3日から執筆された啄木の処女小説。「渋民日記」の「八十日間の記」によると、「7月に入った。3日夕から予は愈々小説をかき出した。『雲は天才である』といふのだ」とある。モデルは、渋民尋常高等小学校の校長や女教師ら=函館市文学館収蔵のレプリカ。実物は日本近代文学館所蔵
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――そもそも啄木が、物を書く世界に足を踏み入れたのはいつごろでしょう。
桜井 盛岡中学校へ進んだ啄木は明治33年(1900)4月、3年生になると級長の阿部修一郎、副級長の小野弘吉に加えて小沢恒一、伊東圭一郎と5人で親睦(しんぼく)の会を作ります。これが「ユニオン会」へと発展しました。
そして5月に入り、2年生の時から発行してきた雑誌「丁二会」の体裁を改めて回覧雑誌「丁二雑誌」を発行することになるのですが、これが啄木の文学へのアプローチの下地になったといってよいでしょう。
――文学に関する影響を最も深く与えたのは、どのような人たちだったのでしょうか。
桜井 この年、さらに上級生の及川古志郎(後の海軍大臣)と出会い、彼の紹介で上級生の金田一京助を知り、東京新詩社が発行する「明星」を借りて読む機会を得ました。
その「明星」をきっかけに、与謝野晶子の作品から圧倒的な影響を受けました。また、後に「銭形平次捕物帖」などで知られる野村胡堂らの影響もあって、文学への傾倒を深めていったのです。
――では、啄木が実際に作品を社会的に発表するようになったのはいつごろでしょう。
桜井 啄木は明治34年(1901)12月3日から翌年の元旦にかけて、翠江(すいこう)のペンネームで「白羊会詠草」25首を岩手日報に発表しました。これが初めて活字となった啄木の短歌です。
「白羊会」というのは、啄木が中心となって盛岡中の友人と結成した短歌グループで、友達とともに文学への研鑽を重ねていきました。
明治35年(1902年)1月には、麦羊子(ばくようし)のペンネームで、蒲原有明の詩集「草わかば」について、「草わかばを評す」と題して岩手日報に発表しました。3月には白蘋(はくひん)のペンネームで、文芸時評「寸舌語」を発表しています。このころが黎明(れいめい)期と言ってもよいでしょう。
――本格的に文学で身を立てようとしたのは、いつごろなのでしょう。また、直接のきっかけはなんだったのでしょう。
桜井 明治35年10月10日、「明星」第3巻第5号に「血に染めし 歌をわが世のなごりにて さすらひ ここに野にさけぶ秋」が、白蘋の名前で掲載されます。
この時期は、啄木が盛岡中の試験でカンニングを行い、落第が必至であったことから、自ら退学願を提出し、これが許可されたことと重なります。当時、中途退学で身を立てることは啄木にとって、かなりの決断が必要だったと思います。
岩手日報への短歌や時評の発表とあわせ、「明星」に短歌1首が発表されたことが引き金となって明治35年10月30日、文学で身を立てるべく渋民から上京しますが、これが今に残る「石川啄木のスタート」ですね。
――ところで、啄木は、詩や短歌で知られますが、本当は小説を書きたかったのではないでしょうか。
桜井 啄木は、夏目漱石や島崎藤村の作品をはじめ、当時、相当の文学作品を読み、「自分もいよいよ小説を書くのだ」と、日記に記しています。啄木が最初に書いた小説は、自分が代用教員として勤めた渋民尋常高等小学校を題材にした「雲は天才である」です。
これを含めて執筆し、書き残した小説は全部で15編あります。このうち未完の作品は5編、そして明らかに失敗作といわれる「病院の窓」などもあり、啄木の小説は総じて評価は低いですね。
しかし、失敗ということだけで評価するのではなく、啄木の本心は、本当は小説を書きたかったということを、きちんとおさえて置く必要がありますね。
――書いた小説が酷評されて、自信を失ったとも聞きますが、啄木の気持ちはどうだったのでしょうか。
桜井 明治42年(1909)1月21日から26日にかけて執筆された小説「足跡」は、この年の3月、「早稲田文学」の「小説月評」において、中村星湖から手厳しい批評を受けました。確かにこのことで自信を失い、続稿をやめ、未完に終わったという出来事もありました。
しかし、その後、「葉書」「道」「我等の一団と彼」を執筆しておりますし、「明治42年創作ノート」「明治43年創作ノート」を見ても、小説発想へのフレーム作りが十分うかがえます。従って、小説というジャンルは決して良い出来栄えではありませんが、しっかりととらえていくことが啄木文学を評価する上で大切だと思いますね。
――総体的に評価が低いとはいえ、それらの小説の中で、代表作といえるものは、どんな作品なのでしょうか。
桜井 未完の作品を含めて、15編の小説の中で、いわゆる日本近代文学の小説というジャンルにおいて、啄木のどの作品が通用するかといえば、個々人での評価の違いもあろうかと思いますが、私は「我等の一団と彼」が最高の出来栄えと考えています。
この作品は明治43年(1910)5月末から執筆され、啄木死後の大正元年(1912)8月29日から28回にわたって、「読売新聞」に発表されたものですが、自己批評と時代批評が見事にまとめ上げられ、思想小説としてもすばらしい作品ですよ。
――赤貧の中で苦労した啄木ですが、文学者としての成功といいますか、生前にベストセラーとなった短歌集はあったのでしょうか。
桜井 啄木の生存中に出版された図書は2冊しかありません。
1冊は詩集「あこがれ」で、明治38年(1905)5月、東京小田島書房から発行されました。初版と再版合わせて1000部印刷され、定価は50銭でした。
もう1冊は、明治43年(1910)10月に東雲堂書店から発行された歌集「一握の砂」で、500部印刷され、定価は60銭でした。
2冊とも決して良い売れ行きではなかったようです。でも、詩集の方は再販もされていますので、こちらの方が多く売れたといえるでしょう。
ところで、これら詩集、歌集の初版本は、今ではほとんど入手不可能と言ってよいです。もしあったとしても、150万円から200万円くらいの値が付くでしょうね。
(敬称略) |
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