「ママはぽよぽよザウルスがお好き」の青沼貴子さん みんなが大好(だいす)きなマンガは、どのようにしてかかれているのでしょう。北海道出身のマンガ家はおおぜい活やくしていますが、今回は、函館(はこだて)出身で、お母さんたちに人気だった「ママはぽよぽよザウルスがお好き」の作者、青沼貴子(あおぬまたかこ)さんの仕事場におじゃましました。《古家昌伸(こいえまさのぶ)》 顔の部分は「自分の手で」/背景などはアシスタント 青沼さんの仕事場は、東京都板橋区(とうきょうといたばしく)にある自宅のひと部屋。あまり広くはなく、本人とアシスタントが作業するための机(つくえ)にペンや絵の具がおかれ、後ろにコピー機(き)があるぐらい。全体的には静かな部屋ですが、「テレビを見ながら仕事をすることもある」そうです。
マンガをかく作業はえん筆で下絵をかくところから始まります。大まかにかいた線を黒いペンでなぞり、りんかくをえがきます。背景(はいけい)をかいたり、色をつけたりするのは、アシスタントの仕事ですが、大事な顔の部分は「自分で色をぬります」。四コマやストーリーのあるマンガでは下絵の前に「ネーム」と呼ばれる下がきをし、コマわりやセリフを決めます。 青沼さんが「週刊(しゅうかん)マーガレット」の増刊(ぞうかん)号でデビューをはたしたのは、二十一歳(さい)のとき。最初(さいしょ)は少女マンガをかいていました。お母さんになった二十七歳のころから、育児(いくじ)をテーマにしたマンガをかき始め、本人が長男リュウ君と長女アンちゃんとともに登場する「ママはぽよぽよザウルスがお好き」が大ヒットしました。 そのあと本になった「たんぽぽちゃん」は、一九六〇年代後半に函館で過(す)ごした自分の少女時代をマンガにした作品。青沼さんは小さいころ、「母に『たんぽぽ』と呼(よ)ばれていた」そうです。ちょっとわがままで、おちゃめなところもある、ふつうの女の子です。最初は幼稚園(ようちえん)に通っていましたが、今は小学校低学年のようです。小学校に行くと、今でもこんな女の子がいますよね。 大切なのは想像力だよ! 青沼さんにインタビュー 「見たり聞いたりいろんな体験を」
−−マンガ家になろうと思ったのはいつですか。 「小学三年のとき、父が読んでいた白土三平(しらとさんぺい)さんの『サスケ』が大好(だいす)きでした。そのころから『貴ちゃんはマンガ家になる』と言っていましたね。中学生では『ベルサイユのバラ』や『エースをねらえ!』などに熱中(ねっちゅう)しました。友だちとマンガで交かん日記(にっき)のようなこともしていました。高校では(部活で)バドミントンをやったので、あまり読まなくなりましたが、卒業するとやはりマンガ家になりたくて、東京の専門(せんもん)学校に通いました」 −−少女マンガから育児(いくじ)マンガへ、そして自分がモデルの作品へとテーマが変わりましたね。 「子育てが始まると、少女マンガをかくのがつらくなり、自分が体験(たいけん)している育児のことをかき始めました。『ママぽよ』には、お母さんたちから『うちだけじゃなかったんだ、と安心した』などという共感(きょうかん)の手紙が多かったです。それに自分もはげまされました。育児が一段落(いちだんらく)した十年ぐらい前からは、楽しかった北海道での子ども時代をかいてみようと『たんぽぽちゃん』を始めました。かき始めて、子どもには優(やさ)しくなりましたね。親の立場では腹(はら)が立つけれど、子どものとき意味なくきげんが悪いこともあったな、と思うようになりました」 −−マンガに登場した青沼さんの子どもたちからは、何か言われましたか。 「『ママぽよ』はアニメにもなったので、下のむすめは幼稚園(ようちえん)のときにテレビで見ていましたが、幼稚園にいくのをいやがったこともありました。幼稚園でいろいろ言われますから。長男は何も言わなかったのですが、担任(たんにん)の先生から『親の仕事でいじめられるのは、一番つらいですね』とそれとなく言われました。それで下の子が幼稚園を終えたときに連さいをやめました。今は二人とも許(ゆる)してくれていると思いますけど…」 −−マンガ家になりたいと思っている子どもたちにひと言。 「デビューしたころ出版(しゅっぱん)社の編集者(へんしゅうしゃ)が『絵はうまくないけれど、話をつくれるのがいい』と言ってくれ、とても心の支えになりました。絵はたくさん練習すればうまくなりますが、話をつくるには想像(そうぞう)力が必要だというのです。確(たし)かに子どものころからひとりで空想するのが好きでした。毛布(もうふ)にくるまり、二時間くらい考えるのは平気でした。想像力をふくらませて話をつくるため、いろんなものを見たり聞いたり、体験したりすることが大事だと思います」 |
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