札幌市南区(さっぽろしみなみく)ほどの広(ひろ)さしかない南(みなみ)の国(くに)シンガポールを知(し)っていますか。今(いま)は高(たか)いビルが立(た)ち並(なら)ぶ近代的(きんだいてき)な国(くに)ですが、この国(くに)は六十年以上前(いじょうまえ)、「第二次世界大戦(だいにじせかいたいせん)」という戦争(せんそう)が起(お)きた時(とき)、昔(むかし)の日本軍(にほんぐん)がせめこんできて、「昭南島(しょうなんとう)」という名前(なまえ)の日本(にほん)の領土(りょうど)になったことがあります。シンガポールに住(す)む日本人(にほんじん)の小学生(しょうがくせい)といっしょに、戦(たたか)いがあった場所(ばしょ)などを見(み)て回(まわ)りました。《勝木晃之郎(かつきこうしろう)、写真(しゃしん)も》

様子伝える記念ひ 各地に

「日本がしたこと 許すけど忘れない」

 案内(あんない)してくれたのは、四十年前(まえ)に中国系(ちゅうごくけい)のシンガポール人(じん)と結(けっ)こんして移(うつ)り住(す)んだ顔夕子(がんゆうこ)さん(68)=鹿児島県出身(かごしまけんしゅっしん)=。シンガポールの歴史(れきし)にとてもくわしい人(ひと)です。

クランジ共同墓地(きょうどうぼち)で、戦争(せんそう)のことを説明(せつめい)する顔(がん)さん(左(ひだり))
 まず訪(おとず)れたのはシンガポールの西側(にしがわ)にあるブキバトという場所(ばしょ)です。日本(にほん)の軍隊(ぐんたい)は一九四二年二月に今(いま)のマレーシアから当時(とうじ)イギリスの植民地(しょくみんち)だったシンガポールにせめこみ、一週間(しゅうかん)でイギリスを中心(ちゅうしん)とする連合国軍(れんごうこくぐん)を降(こう)ふくさせました。

 ブキバトでは激(はげ)しい戦(たたか)いがあったと言(い)われています。日本軍(にほんぐん)はつかまえた連合国軍(れんごうこくぐん)の兵士(へいし)に命令(めいれい)して、戦(たたか)いで死(し)んだ日本兵(にほんへい)をまつる大(おお)きなお墓(はか)をブキバトに造(つく)らせたのです。連合国軍(れんごうこくぐん)の人(ひと)たちはその後(うし)ろに死(し)んだ仲間(なかま)のお墓(はか)も建(た)てましたが、日本(にほん)が戦争(せんそう)に負(ま)けた時(とき)に両方(りょうほう)ともこわされてしまいました。

ブキバトにある記念(きねん)ひの文字(もじ)を読(よ)む子(こ)どもたち
 終戦(しゅうせん)五十年の一九九五年に、シンガポール政府(せいふ)は、ブキバトなど十一カ所(しょ)に戦争当時(せんそうとうじ)の様子(ようす)を子(こ)どもたちに伝(つた)える記念(きねん)ひを造(つく)りました。

 シンガポールにはさまざまな人種(じんしゅ)の人(ひと)が住(す)んでいます。このため、記念(きねん)ひの説明(せつめい)は英語(えいご)やマレー語(ご)、日本語(にほんご)などで書(か)いてあります。戦(たたか)いがあった場所(ばしょ)のほか、中国系(ちゅうごくけい)の人(ひと)たちがごう問(もん)を受(う)けた場所(ばしょ)などにもあります。「日本(にほん)がやったことは許(ゆる)しましょう。しかし、絶対(ぜったい)に忘(わす)れません−ということです」。顔(がん)さんが記念(きねん)ひを造(つく)った理由(りゆう)を説明(せつめい)してくれました。

 シンガポールの小中学校(しょうちゅうがっこう)では、歴史(れきし)の教科書(きょうかしょ)で数(すう)十ページを使(つか)って、日本(にほん)にせん領(りょう)された時代(じだい)のことを教(おし)えています。このことについて、日本(にほん)の教科書(きょうかしょ)には、ほんの少(すこ)ししか書(か)いてありません。同(おな)じ出来事(できごと)でも、せめた国(くに)とせめられた国(くに)の見方(みかた)には大(おお)きなちがいがあるようです。

多(おお)くの日本人(にほんじん)がねむる日本人墓地(にほんじんぼち)
  日本軍(にほんぐん)との戦(たたか)いで死(し)んだ約(やく)二万四千人(にん)の連合国軍兵士(れんごうこくぐんへいし)がねむるクランジ共同墓地(きょうどうぼち)にも行(い)きました。死(し)んだ人(ひと)たちの名前(なまえ)を刻(きざ)んだ石(せき)ひを見(み)たシンガポール日本人小学校(にほんじんしょうがっこう)六年の丸岡遥(まるおかはるか)さん(12)は「こんなに多(おお)くの人(ひと)が死(し)んだとは知(し)らなかった。二度(ど)と戦争(せんそう)を起(お)こさないようにしなければ」とおどろいた様子(ようす)でした。

 最後(さいご)に訪(おとず)れた日本人墓地(にほんじんぼち)では、戦争(せんそう)があったころ、貧(まず)しい両親(りょうしん)を助(たす)けるために、十代前半(だいぜんはん)で日本(にほん)からシンガポールに働(はたら)きに来(き)た女(おんな)の子(こ)たちのお墓(はか)もありました。五、六さいで来(き)た子(こ)もいたそうです。

 「ぼくたちは幸(しあわ)せだと思(おも)いました」と二年生(せい)の大関祥久君(おおぜきよしひさくん)(7つ)。三年生(せい)の高橋樹史君(たかはししげふみくん)(9つ)も「そんなかわいそうな子(こ)どもたちがいたとは信(しん)じられない気持(きも)ち。みんなで仲良(なかよ)くできる世(よ)の中(なか)にしたい」と話(はな)していました。


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