スピードスケート選手

岡崎朋美さん
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 (1)おそるおそる乳しぼり

 (2)徒競走はいつも1等

 (3)苦手だった長きょり練習

 (4)2年後にまたメダルを
◆岡崎さん略歴◆

 1971年9月、網走管内清里町生まれ。28歳。9歳でスケートを始め、釧路星園高校を卒業して90年に富士急入社。94年のリレハンメル五輪では500メートルで14位だったが、98年の長野五輪では同種目で銅メダル。1000メートルで7位入賞。ワールドカップ500メートルで通算11勝。趣味は愛車に乗ること。山梨県富士吉田市在住。身長163センチ、体重58キロ。


(1)おそるおそる乳しぼり
 私のふるさとは網走市に近い網走管内清里町です。

 山形県出身のおじいちゃんが、父らと共にかいたくに入った土地で、家の仕事は乳牛を飼うらく農業です。

 家のある場所は清里町のなかでも摩周湖に近い札弦(さっつる)という地区で、斜里岳や裏摩周の山など三方を山に囲まれていて、私の家も山のなかにあります。小学校名は「光岳小」で、校庭からはその名の通りにきれいな山並みが望めます。

 私には六つ上の姉と四つ上の兄がいて、三人きょうだいの末っ子です。姉や兄と少し年がはなれているうえ、近所には同じくらいの年の子もいなかったので、小学校に入るまでは、いつも牛の世話をしたり畑で働く母の後をついて歩いていました。とっても母親っ子だったんです。

 今でこそ家の前の道路もほ装されていますが、私の小さなころはがたがた道でした。小学校までは、三キロ以上あって、山を一つこえての通学でした。夏は自転車で、冬は母が車で送ってくれました。仕事がいそがしい時などは、むかえの車はなくて歩いて帰って来るのですが、ふぶきの時などは寒くて大変でした。

 小学校は、すごく古い木造平屋で、歩くとギシギシ音がするし、夏にはだしで遊ぶと、ろうかの板が割れていて、けがをしそうなほど古い校舎でした。六年生の時に新しい鉄筋の校舎になったのですが、今思うと木造校舎で学んだことが本当になつかしくて、良かったと思います。

 低学年のころは、午後三時の両親の仕事休みに間に合うように家に帰るんです。ジャガイモやビート畑、牧草地などで一しょにおやつを食べるのが楽しみでした。

 子供のころは牛乳をしぼる親牛と子牛を合わせて五十頭くらい飼育していました。今ではいろいろな農作業もすっかり機械化されましたが、まだ、両親が手で乳しぼりをしている時代で、私も牛にけられないように注意しながら、おっかなびっくり乳しぼりをしました。なつかしいなー。

 めったに帰れない清里町ですが、自然が豊かですばらしい私のふるさとです。


(2)徒競走はいつも1等
 家がらく農業なので、牛は身近にたくさんいましたが、子供のころは、動物が大好きで犬やウサギ、ニワトリなどを自分で飼っていました。

 犬は冬に野良犬を拾ってきて、きれいに洗ってあげた後、かわかすのにこたつの中に入れておいたんです。なにも知らない母が帰ってき て、「どうしたの」と、犬にびっくりしました。ニワトリは、お祭りのえんにちで買ってきたヒヨコを大きく育てたんですが、牛舎で飼っていたら夜中に、牛にふみつぶされて死んでしまったんです。

 牛の世話がありますから、家を留守にすることができず、家族そろってとまりがけで旅行にいくようなことはありませんでした。そんな中での楽しみは、夏休みなどに姉や兄ととなり町の斜里町(網走管内)にある母の実家に遊びに行くことでした。いとこたちと遊んだり、オホーツクの海に海水浴に行きました。

 また、小学校のころの思い出に乳牛共進会があります。農家が飼っている牛の体形のすばらしさなどを競い合う会 で、地元だけでなく北見や網走の方へも出かけました。牛の体をきれいに洗ってあげて、ていねいにブラシをかけてからしん査を受けます。私も牛のロープを引いて歩きました。

 体育は何でも大好き。とっても足が速くて、低学年では陸上部に入っていました。運動会の徒競走はいつも一等賞で、リレーの選手でした。

 学校にスケート少年団はあったのですが、入団したのは四年生です。なかよしの同級生が夏は陸上、冬はスケートをやっていたので私も始めました。少年団には熱心な父母がいて、同級生はみんな、すごいスピードでこしを落としてすべるのですが、私はスケートにも乗れませんでした。

 それで、夕飯の後、両親と一緒に学校のリンクに行って電灯の下で、両手を支えてもらって、歩くところから練習したんです。

 もちろんそのころは、オリンピックやワールドカップに出場することやメダルをとることなど、夢にも思いませんでした。


(3)苦手だった長きょり練習
 スケート少年団の友だちは、とても仲良しでした。冬は氷上、夏はスケート練習専用のスライドボードなどで、小 学生でも本格的なトレーニングをやりました。練習であせをかいた後、みんなでスポーツドリンクを飲んだり、アイスクリームを食べながら、 わいわい話をするのが楽しみでした。

 私は一人で静かにいるよりも、友だちと大勢でいるのが好きなので、おにごっこやキックベースでよく遊びました。足の速さは男の子にも負けませんでした。でも、スケートでは女の子でも速い子がいて、小学校では最後まで追いつけなかったですね。斜里町や網走市にも速い子はたくさんいましたが、同じ学校の子には負けたくなくて、どうにか追いつこうと練習しました。

 勉強はあまりやらなかったけれど、小学生の時の成績は良かったんですよ。国語が得意科目でした。両親から「勉強しなさい」と言われたことはありません。毎日、元気にのびのびと生活していました。

 中学は清里中で、家から約七キロもあってバスで通いました。中学にはスケート部がなくて、指導できる先生もいなかったので、友だちのおとうさんが教えてくれました。クラブ活動は陸上部に入りました。

 スケートの練習は町営や中学校のリンクでやりましたが、リンクを何十周もして、長いきょりをすべるんです。私は短きょりはいいんですが、長きょり練習になると仲間からどんどんおくれるんです。それで、くやしなみだを流しながらすべるんです。指導してくれるおじさんはそれを見て、「もういいから上がれ」というんです。でも、意地でもやめませんでしたね。

 そのかわり、私は気持ちの切りかえが早いんです。練習さえ終わってしまえば、すぐにこにこ笑っていました。練習がつらくてスケートをやめようと思ったことは一度もありません。

 土曜や日曜日は友だちのおとうさんが運転するワゴン車で、片道百キロ以上もある釧路の柳町リンクへ通いました。練習の帰りには、必ず釧路市内のお店でみんなで焼き肉を食べました。すごくおいしかったなー。


(4)2年後にまたメダルを
 中学生の時の成績は、最高でも全道大会十六位です。私はなにしろスタートは速いんです。ところが、中学の大会や高校のイ ンターハイの予選は七、八人が一緒にスタートするオープントラックなんです。そこでパーッと飛び出すと、みんなに後ろに付かれて、あとでぬかれてしまうんです。母によく「ダブルトラックで試合をしたいよ」と話したものです。

 中学三年の時に札幌の真駒内で開かれた全国中学大会で、釧路星園高校の橋本かんとくに「スケ ートが好きならうちの高校に来ないか」と、さそわれました。スケートの強い学校は、苫小牧の駒沢や帯広の白樺などもありましたが、両親らと相談して、すいせん入学で星園に進学しました。

 釧路では、親元をはなれて高校の近くに下宿しまし た。美幌や北見から入学したスケート部の三人の友達と一緒でした。下宿のおじさんとおばさんはすごくいい人で、自分のむすめのように接してくれました。最初は礼ぎや身だしなみ、時間などに厳しくて、家に帰りたかったですね。なにしろまだ十五歳でしたから。でも、あの時に厳しくしつけてもらったことは、後になってから「自分のためになった」と、感謝しています。

 スケートの練習はしっかりやったんですが、とうとう高校では国体にも出られませんでした。もちろんオリンピック出場など夢の夢で、 まあ、無名選手ですね。

 釧路のリンクで練習中に富士急のかんとくに声をかけられて、今の会社に入りましたが、二十一歳で初めてワールドカップに出場し、ドイツに遠征したときは本当にうれしかったです。

 今の目標は、二年後のソルトレークシティー(アメリカ)のオリンピックでのメダルのかく得とワールドカップで優勝回数を重ねることです。みんなも応援してくださいね。

 どんなスポーツでも続けることが大切だと思います。苦しい練習やいやなこともあるかもしれませんが、それも大人になってからきっとよい思い出に なるはずです。みんなもがんばってね。

 聞き手・編集委員 小野 初雄


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