FMパーソナリティー

ダイアン・ブラウンさん
トップに戻る
 (1)祖先の開たく者精神学ぶ

 (2)日が暮れるまで海水よく

 (3)しん具は日本の「ござ」

 (4)学校休んで社会勉強
◆ブラウンさん略歴◆

 1964年12月、アメリカ生まれ。35歳。11年前から札幌で生活し、FMラジオAIR−'Gのフリーパーソナリティーとして活躍中。パーソナリティーになる1年前から北星大で経済学などを勉強、中、高校の英語科教員免許も取った。日本人男性と結婚、11月に出産予定。


(1)祖先の開たく者精神学ぶ
 東京オリンピックの年に、ノースカロライナ州で生まれ、二さいでカリフォルニア州に引っこしました。ロサンゼルス近くのシールビーチという海辺の街です。

 私は長女で、弟が二人います。父は歯医者で、母はふつうの主婦です。家族全員のつながりがとても強い家庭でした。

 三人きょうだいですから、子供のころは毎年三回、誕生会が開かれました。そのたびに祖父母や親せきが集まり、祖先のこれまでの歩みをよく教えてくれました。祖父母らは話し上手で、私は「もっと聞きたい」とせがんだほどです。

 アメリカは世界各国から人びとが移り住んだ国で、私たちはユダヤ人です。

 ユダヤ人は中東にあるパレスチナの土地に住んでいましたが、約二千年前、さまざまな勢力にせい服されて、はなればなれになり、イスラエルという国ができるまで、世界各地で厳しい生活を続けていました。

 私のそう祖父、そう祖母は昔、ロシアに暮らしていました。しかし、いろいろはく害を受けていたので、二人は一九〇五年ごろ、アメリカのニューヨークに移り住みました。そこでは、それぞれの夢を実現しようという開たく者精神があふれていました。

 そう祖父は、ロシアでは動物の病気を治すじゅう医師でしたが、夜にげ同然でニューヨークに来たので、糸や針などの家庭雑貨を街の中で売り歩いて、生活を始めました。

 その後、シカゴに引っこし、その息子は苦労しながら勉強して薬ざい師になり、薬局を開きます。私の祖父です。当時のシカゴはギャングが暴れていましたが、祖父のがんばりで父は歯医者になりました。

 ロシアからニューヨーク、そしてシカゴからロサンゼルスと移り、私がロシアにもっとも近い北海道に来ました。そう祖父から四世代かけて地球をほぼ一周したんですよ。それも夢を追ってね。

 毎年の誕生会で、私は祖先の苦労を知り、開たく者精神を自然に学んでいたのです。みなさんも、おじいちゃん、おばあちゃんから昔の暮らしなどを聞いてみてください。


(2)日が暮れるまで海水よく
 三人きょうだいとはいえ、それぞれ一さいちがいなので、三つ子と変わりませんでした。

 私がトイレができるようになったり、保育園や幼稚園などに通うようになると、弟二人も同じように後を追い、母はその世話で大変だったようです。

 小学校は自宅近くの私立でした。日本のようにランドセルを背負うこともなく、母が作ってくれたサンドイッチを持って、気軽に通っていました。

 アメリカの小学校では、おもに英語の読み書きと算数を教えます。親が小学校に期待しているのは、基本的な教育だけです。

 それ以外の社会のルールや道徳は、教会やコミュニティーセンターなどの地域社会で学びます。その地域社会で大切な役割を果たすのは、家庭なのです。

 ですから、学校が終わるのが早く、クラブ活動もなく、もちろん日本のような塾もありません。日が暮れるまで弟たちと一しょに遊び回りました。

 海辺の町に住んでいたので、小さいころから泳ぎを覚え、夏になると、毎日のように日が暮れるまで泳いでいました。はだは日に焼け、男の子のようでした。

 読書にも夢中になりました。三さいぐらいで文字が読めるようになり、四さいからは、小学校高学年向けの本を読み始めていました。

 小学校に入ってからは、先生が安い値段で本をすすめてくれるようになり、母も「いくらでも注文しなさい」と応援してくれたので、学校を通して本を次々と買い求め、読みふけりました。

 次回でくわしく話しますが、わが家はねる時間がとても早く、おそくまでしん室の電気をつけていられなかったの。それで私は、しん室のドアを少し開け、ろう下の明かりで一晩中、本を読んだこともあります。

 読んだ本は、女性が主人公の小説が多かった。日本でもテレビ番組で人気がある「大草原の小さな家」のシリーズは、すべて読みました。

 まん画ですか? 日本のようなまん画は、アメリカにはありません。

 小さいころから本が好きになり、文字を読むことが身についたので、おとなになってからも、本を通して世界各地の文化などを知り、役に立ちましたよ。


(3)しん具は日本の「ござ」
 私たちが小さいころは、両親のしつけは厳しかったよ。おかしなどのあまいものは、ほとんど食べられなかった。おやつなどはありません。誕生会など特別な日にケーキやキャンデーを食べられるぐらいでした。

 ねる時間も早かった。午後七時ですよ。夏で日が長くなっても、母がしん室の窓にカーテンをひき、ねかされました。中学校でも午後八時、高校でやっと午後十時になりました。北海道で暮らすようになり、日本の子供が夜おそくまで起きていたので、おどろきました。

 早くねていたので、テレビもほとんど見られなかった。学校では日本と同じようにテレビ番組が話題になりますが、私は、その話に加われなかった。ただ、それでさびしい思いはしませんでした。テレビを見ているつもりで、同級生の話を聞いていましたから。

 ねるときに使うしん具も、わが家では特別でした。ベッドではなく、イグサで編んだ日本の「ござ」だったのです。

 ある日、父が日本の黒沢明かんとくの映画「七人の侍」を見たのがきっかけでした。映画の中で、出演者が「ござ」でねている場面があったらしく、父は「質素な暮らしが素晴らしい」と感激し、日本からアメリカに移り住んだ人が多いロサンゼルスで「ござ」を買ってきたのです。

 ベッドは持ち出され、家族全員が「ござ」でねるようになりました。私たちの体をきたえようとしたのでしょう。小学校に通っている間は「ござ」の生活が続いていました。

 体ばつもありました。父は「悪いことをしたら、七さいまではお仕置きをする」と私たちに伝え、いたずらをすると、おしりをペンペンとたたかれました。母はこれを見守り、口出ししませんでした。

 歯医者の父は自分の手をけがしないよう気を使っていましたが、お仕置きの時はその手でたたきました。父の愛情の表れだったのでしょう。七さいを過ぎると、父は私たちと目と目を合わせて無言で注意し、ほとんど体ばつはありませんでした。

 しつけは厳しかったですが、両親はサーカスや音楽会などに私たちを連れていってくれました。父にはひょうきんな面もあり、サーカスに出かける時はピエロの衣装を着て、私たちと一しょにさわぎました。ゆかいな家族でした。


(4)学校休んで社会勉強
 中学校に入ると、両親は自宅の近くに別な家を買って、私たちは親とはなれて新しい家で暮らしました。近所の人は「子供だけで大じょう夫なの」と心配しましたが、両親はこれを気にしませんでした。これまで厳しくしつけているので、私たちを信じていたのでしょう。そ のころから両親は友人に「ヤングアダルト」と私たちをしょうかいしていました。

 学校生活は、同級生になじめなかったので、しだいにつまらなくなっていました。アメリカは中学校が二年、高校が四年ですが、中学校ではほとんど毎週一回欠席、父の歯科医院で受け付けなどを手伝いました。父は、学校も教育の場だが、仕事を覚えるのも大切な社会勉強だ、と考えていたようです。

 高校は、一年生の時はまじめに通学していましたが、二年生になると、毎日のように休み、映画を見たり、図書館で本を読んでました。学校に行くと体調が悪 くなる「登校きょひ」ではなく、たばこを吸うなどの不良でもなかった。

 アメリカはさまざまな生き方があることを周囲が理解しており、私のことを知った父は飛び級の試験で卒業しなさいとすすめてくれました。飛び級は、学力しだいで一年生でも一気に三、四年生に進級できる仕組みで、私はその試験に合格、十五さい半で卒業しました。ふつうの高校卒業は、 日本と同じく十八さいです。

 しばらく海外を旅行したあと、今度はカリフォルニア州の大学に進みました。まだ十六さいになっていなかったので、余ゆうをもって勉強し、六年かけて卒業しました。ここで日本の仏像など美術の歴史に興味が深まり、ロサンゼルスの友人のしょうかいで札幌に来まし た。両親は、若いころ海外に留学したかったようで、「遠くにはなれても、心は結ばれている」と喜んでくれました。両親は留学の夢を私にたくしたのです。

 札幌に住んで十一年になります。その歴史から北海道は、夢を追う開たく者精神にあふれた地域なのに、その精神をなくした人が多いように感じます。

 みなさんは、道産子でしょう。失敗をおそれず、いろいろな夢にちょう戦してください。

 聞き手・編集委員 高木 孝二


戻 る