シマフクロウの保護・研究者

山本純郎さん
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 (1)強れつ 最初の出合い

 (2)作文を書いて特選に

 (3)周りにさまざまな動物

 (4)遊び道具、みんな手作り
◆山本さん略歴◆

 やまもと・すみお 1950年、景色がとくに美しい「日本三景」のひとつ天橋立がある京都府宮津市に生まれる。大阪府で子供時代を送り、京都市動物園や大阪府守口市に勤める。公務員をしながらフクロウを観察していたが、1982年、シマフクロウの保護・研究のため北海道に移住。現在、北海道鳥獣保護員などを務める。


(1)強れつ 最初の出合い
 私は関西で生まれ育ちましたが、フクロウが大好きで、十八年前に大阪から北海道に引っ越してきました。森と川が近くにある根室市こう外の酪陽というところに、妻と子供四人の六人家族で暮らしています。北海道にしかいないシマフクロウが生息する場所です。

 自然のかん境がだんだん悪くなって、今ではシマフクロウは百三十羽くらいしかいません。私はそのシマフクロウの保護や研究をしています。毎日観察をして、病気やけがをしているフクロウを助ける仕事です。

 シマフクロウが生息できないということは、実はそれ以外の動物や人間にとっても危険信号が出ているのです。だから私は、シマフクロウとともにその生息地も守らなければと、思っています。

 「どうしてそんなにフクロウが好きなの」と、人からよく聞かれます。首を縮めたり、かしげたりするしぐさやねているときの顔って、かわいいですよ。でも、フクロウが好きな本当の理由は自分でもよくわからないのです。

 ただ、はっきり言えるのは、小学生時代にフクロウと初めて出合ったときの印象がとても強れつだったことです。

 京都府で生まれた私は、父の仕事の関係で四さいのときに大阪府の枚岡(ひらおか)市《現在は東大阪市》に移り、一九五七年、同市の孔舎衛(くさか)小学校に入学しました。

 そして、小学一年生の夏の初めのことです。友達の家から自分の家に帰ると中、その日はなぜかいつもの道ではなく、墓地を通っていました。

 歩きながら何げなく目を上にやると、高い木にフクロウが止まっていたのです。

 感激という気持ちとは少しちがうのですが、家に帰ってもフクロウのことが気になって仕方ありません。次の日にまた来ると、同じ木にちゃんとフクロウがいました。子そだての季節だったのです。私は毎日フクロウのもとに通いました。昔は大阪にもフクロウがいたのです。


(2)作文を書いて特選に
 小学一年生のとき友達の家から帰ると中に、ぐう然出会ったフクロウは、次の年も、その次の年も、初夏になると、墓地にある同じ木の上で子そだてをしました。

 公務員をしていた父、博典の仕事の関係で三年生のとき、同じ大阪府内のとなり町に転校しましたが、フクロウに会いたくて、となりの町から何回も見に来ました。

 フクロウは子そだてが終わると、よそに行ってしまいます。でも、子供の私には、そんなことは分かりません。フクロウがいなくなったと思って、けん命に別の場所を探し回ったこともありました。

 そのうち、家から意外に近い神社などにも、フクロウがいることを知りました。フクロウがまわりにいたのに、気がつかなかったのです。

 本州のフクロウは、エサをとりやすい人間の里にだんだん入りこんで、神社のある森などにすみかをつくるようになりました。

 つまり、人間がフクロウのすむかん境を提供したわけですが、北海道のシマフクロウは逆に人間がすみかに入りこんできました。同じフクロウでも、ちがいがありますね。

 このように、私が子供時代を過ごした四十年以上前の東大阪はフクロウが結構みられたのです。

 だんだんフクロウにのめりこんでいった私は、五年生のとき、フクロウとの最初の出合いのことなどを作文に書き、全国作文コンクールで特選になりました。

 そのことが学校の朝礼で校長先生からみんなにしょうかいされると、ほかのクラスの子供からも「フクロウを見たことがある」と、声をかけられました。

 六年生になって、マチのペットショップでフクロウが売られていることを知りました。値段は五百円。子供にとっては大金です。私は必死で親を説得しました。

 私の家ではニワトリなどいろいろな動物を飼っていましたが、父も、母ふみも、フクロウと聞いて、さすがにとまどったようです。

 でも、なんとかOKが出て、ついに自分の家でフクロウを飼うようになりました。このフクロウとは十年間、いっしょに暮らしました。


(3)周りにさまざまな動物
 小学一年生のときに初めて出会い、やがて家でも飼うようになったフクロウのことをこれまで話してきましたが、小学生時代の私の周りには、フクロウ以外にもいろいろな動物たちがいました。

 家では、前回話したニワトリのほか、小鳥やハツカネズミなども飼っていました。父親が動物好きだったのです。外に出れば、畑や小川があって、友達といっしょによく、トンボやホタル、ドジョウなどをとって遊びました。

 あるとき近所の畑で、ニワトリの卵を小さくしたような直径二−三センチの卵をみつけました。「なんの卵だろう」「もしかしたらヘビかもしれない」。子供たちは、ちょっとおっかなびっくりでした。実は、カメの卵でした。

 その卵から小さな小さな子ガメがかえりました。二−三日後、兄たちといっしょに子ガメを近くの池に向け放しましたが、水に入ったらおぼれるのでないかと、真けんに心配したほどです。でも、心配無用。元気に池に入っていきました。

 トンボとりは、黒と黄色のトラ模様がある大きな種類のオニヤンマが一番のお目当てでした。

 北海道の子供はあまりやらない方法かもしれませんが、三十センチほどの糸の両はしに石を付け、トンボがいる空中に放り投げるのです。それを、エサとまちがえるのでしょうか。うまく投げるとトンボがからみついてきます。たまにオニヤンマがかかったときは大喜びしたものです。

 いたずらもよくしましたね。クモをマッチ箱に入れて人をおどろかしたり、学校にコウモリを持っていったりしました。コウモリを友達に見せているうち、教室を飛び回りあわてたこともありますが、先生はおこりませんでした。

 楽しい話ばかりではありません。家の近くの川でドジョウとりをしていて、スッポンに手をかまれたこともあります。これなどは、強れつに痛い思い出ですね。

 私が育った東大阪は、今は住宅が立ち並んでいますが、四十年前は水田もあり、むしろ農村といった感じでした。川魚をとって生計を立てるお年寄りもいました。まだ、自然が残っていたのです。


(4)遊び道具、みんな手作り
 小学生時代はフクロウをはじめ、動物たちとのさまざまなふれ合いを体験しましたが、実は、フクロウよりも前に好きになったのが、きょうりゅうです。きょうりゅうは今も大好きで、根室市の私の家には、きょうりゅうの置物やプラモデルが五十以上はあります。

 もし、フクロウに出会うより早く、きょうりゅうの骨をほり出す現場を訪れていたら、考古学の方に行ったかもしれませんね。なぜ好きかは、自分でもよくわからないのですが、何億年も昔のかいじゅうというより、何かもっと身近な動物のように感じられるのです。

 動物たちとのつき合いばかりでなく、小学生のころはもちろん、友達ともよく遊びました。

 片足とびをしながらカワラをたおして進んでいくカワラけり、8の字形のじん地をせめ合う8合戦、メンコに似たベッタン、それにチャンバラやビー玉などが、四十年前の大阪で子供たちに人気があった遊びです。

 ゴムの力で小さな球を飛ばすパチンコや、弓矢遊びなどもよくしました。

 いつの時代も子供は遊びが大好きですが、私の子供時代は遊びも、自分の育った自然かん境や生活に深く根ざしていました。

 たとえば、パチンコや弓矢遊びは、森や原っぱで材料の木を集めたり切ったりするところから始まり、すべてが自分たちの手づくりでした。遊びにも、子供なりの生活の知えや、工夫のようなものがあったのです。

 ところが今は、多くのものが工作セットとして売られています。昔はゼロから始めたものが、今は5から始めればよいのです。最初からすべてがあたえられる場合も少なくありません。

 今の子供から欠け落ちた大切なものを、別の形で補わなければなりません。それを見つけるのはおとなの責任であり、家庭の役目です。

 生活が便利になることに反対はしませんが、道路一本つけるより大切なものもあります。自分の子供時代の自然体験とも重ねながら、根室でシマフクロウの生息地を守る仕事の重みを、いまあらためて感じています。

 聞き手・編集委員 上出 義樹


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