フォトジャーナリスト

吉田ルイ子さん
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 (1)室蘭の自然に親しむ

 (2)のびのびと育てられ

 (3)初めて知った「差別」

 (4)戦争の悲しみ忘れない
◆吉田さん略歴◆

 1938年(昭和13年)7月、室蘭市に生まれる。慶応大学卒。朝日放送のアナウンサーなどを経て、61年に留学生として渡米し、コロンビア大学大学院などでジャーナリズムを学んだ。71年に帰国後、フリーのフォトジャーナリストとして世界各国を訪れ取材活動を続けている。東京都世田谷区に在住。


(1)室蘭の自然に親しむ
 小さなころは、写真を写されるのが大きらいでした。当時は、カメラやフィルムの性能が良くなかったから、日中でも写真を写すための光として、マグネシウムという金属を発火させる必要があったんです。このマグネシウムが発火すると、「ボンッ!」というとても大きな音がして、目がくらむような光の後に燃えかすのすすが降ってくるんです。だから、とてもこわかったんですよ。

 今は、カメラなどの性能も向上して少しくらい暗くても良く写るし、フラッシュ装置があるから便利になりました。写真ぎらいだった私が、写真や文章で、自分の思っていることを表現するフォトジャーナリストになったのは、科学技術の進歩のおかげもあると思います。

 私が生まれ、育ったのは室蘭市内の茶津町というところです。父は日本製鋼所に勤めており、会社のそばにあったとても大きな社宅に両親と暮らしていました。

 ひとりっ子だったので、わがままいっぱいに育てられ、意地を張ってよく母を困らせたものです。生まれつき体が弱かったので、すぐにかぜをひいたり、のどを痛めて病院通いが続き、両親を心配させました。病院通いは、小学校に入学してからも続き、お医者さんが一番の友達だったくらいです。

 そのころは、スポーツマンだった父に連れられて、魚つりやゴルフのお供をするのが大きな楽しみでした。イタンキ浜というきれいな浜に続く丘りょうに、当時はゴルフ場があったんです。そのゴルフ場の草っぱらで、海をながめたり花をつんだりして遊びました。

 おひな祭りの時などは、友達が家に来てくれて一緒にお祝いをしたり、「おままごと」遊びで夜おそくまで時間のたつのを忘れることもありました。でも、よく通った病院の裏の山で、春に「かたくり」や山菜を採ったり、いっせいに咲く花をスケッチしたことが一番印象に残っていることです。

 それと、父が買ってくれた私の顔より大きな地球ぎ。日本がずいぶん小さくて、世界がとっても広く感じました。大好きな自然と大きな世界へのあこがれは、おとなになっても忘れることができない思い出です。


(2)のびのびと育てられ
 私は、ひとりっ子で体が弱かったから、両親は「目の中に入れても痛くないほど」かわいがって育ててくれました。だから、少しわがままになってしまったのかもしれません。でも、うそをついたりすると、とてもしかられました。おし入れの中に入れられて、反省させられたこともよくあったんですよ。

 父の央は、今の福島県いわき市に生まれ、東京大学を卒業して日本製鋼所室蘭製作所に勤めました。体格の良いスポーツ選手タイプですが、とても物静かでぜいたくな生活をきらう人でした。私を歯医者にしたかったようですが、「勉強をしなさい」とか、男の子のようにやんちゃで木登りなどをしていても「女の子なんだから」というようなことは、一度も言いませんでした。

 福島県会津若松市で生まれた母の時枝は、江戸時代の武家の血を引き、強い意志と優しい心を持つ女性でした。肉を食べず、食べ物の好ききらいが多かった私はよくおこられましたが、きれいな洋服をいっぱい買ってくれたりもしました。

 悪いことをした私を、おし入れに閉じこめるのは母の役目でしたが、ふだんの母は、私の意見にもきちんと耳をかたむけてくれました。私がおとなになって、世界中をかけ回るフォトジャーナリストになれたのは、父や母が私を信じて自由に好きなことをさせてくれたからだと思っています。

 そんな両親に、私が死ぬような心配をかけたことがあります。幼稚園に通っていたころの冬、こおった貯水池の上でスケート遊びをしていて、氷が割れて水の中に落ちてしまったんです。落ちた場所から水に流されてしまい、氷と水面の間の空気をすいながら、体じゅうが冷たくなって「死んじゃうのかな」って思った。一生けん命、父や母の名前を呼んだのを覚えています。

 さいわい、かけつけたおとなが助けてくれましたが、気がついた時に、私のそばにいてくれてた両親のなみだと、安心した顔が忘れられません。その後、水がこわくて、ずっと海にもプールにも入れませんでした。

 みなさんも、両親に心配をかけたり、危険なことは絶対にしないでくださいね。


(3)初めて知った「差別」
 小学校は、今はもうなくなってしまった室蘭市内の成徳小へ入学しました。そのころの日本は、第二次世界大戦といわれる戦争の最中でした。日本や世界中でたくさんの人が命をうばわれ、数え切れないほど多くの人びとが不幸になった時代だったんです。

 成徳小は、私の家から一キロほどはなれたところにありました。友達はみんな、商店街を通って通学していましたが、私はかなり遠回りになる山道を歩いて、学校の裏庭に出る登校方法が好きでした。夏はスケッチブックを持って写生しながら、冬はスキーですべりながら学校へ通ったものです。

 私と同じ学年の女子は、それぞれ約三十人ずつの二クラスでした。かぜなどで学校をよく休んだうえ、ち刻も多かったので担任の先生に何度もしかられましたが、友達はわがままな私にとても仲よくしてくれました。そのころ、通学と中で時どき出会うアイヌ民族の男の子がいました。私が一度行ってみたいと思っていた「トッカリショはま」と言うところから通っていたのです。

 ある日、たまたま下校時間が一緒になったかれに、勇気を出して「トッカリショに連れていって」とたのんだら、「いいよ」と気もちよく案内してくれました。急ながけを、手をつないでもらって下りたところには十数戸の小さな集落があり、立派なひげのおじいさんたちがいました。そして、木の枝にさしてたき火で焼いたサケやトウキビ、ほかほかのジャガイモをごちそうしてくれたのです。すごくおいしかった。

 帰りには、両手にいっぱいのスズランをおみやげにもらって、とっても幸せな気分でした。

 ところが、その日のお礼にかれを私の一番好きな場所だった「イタンキはま」のゴルフ場へ招待した時のことです。大きな犬を連れてやってきたかれに、ゴルフ場の守衛さんが「アイヌと犬は入れない」と言ったのです。私はくやしくてなみだを流しながらこう議しましたが、かれは「オレ、帰る」と立ち去ってしまいました。

 この時、民族や皮ふの色のちがい、お金があるかないかなどで、人が人を区別するような「差別」が、世界じゅうで行われているのを初めて母から聞きました。

 戦争、そしてアイヌ民族の男の子との悲しい思い出は、フォトジャーナリストの仕事を選んだ大きなきっかけの一つとなっています。


(4)戦争の悲しみ忘れない
 室蘭の成徳小で三年生になったころ、アメリカなど連合国軍の日本へのこうげきが強まり、私と母は、父の生まれた福島県いわき市に引っこしました。数カ月後の一九四五年(昭和二十年)八月十五日、日本が戦争に負けたことを知らせるラジオ放送を聞きました。何を言っているのか分からないけれど「また父といっしょに暮らせる」と、大喜びしたのを覚えています。

 当時、兵器工場のあった室蘭が、軍かんのこうげきを受け何百人もの人が死んだことは、後になって知りました。

 戦争が終わると父は室蘭から転勤となり、私たちは東京の目黒区祐天寺で暮らすことになります。私は、現在の東京学芸大学付属小学校へ転入しました。一クラスの生徒が五十人もいる都会の学校でしたが、すぐにだれとでも仲良くなることができました。

 相変わらず病気がちでしたが、体育の時間の鉄棒が得意で、校内マラソン大会では一等になったこともあるんですよ。中学、高校は、電車に乗って通う東洋英和女学院という学校に行きました。英語と化学の勉強が好きで、中学二年の時には英語弁論の全国大会に出場もしました。

 でも、楽しかった思い出ばかりではありません。空しゅうで焼け野原となった東京の街の姿は悲しかった。父といっしょに行った上野では、戦争で両親や兄弟、家をなくした、私と同じ年ごろの子供たちが大勢いました。二度としてはならない戦争の悲しみは、絶対に忘れることができません。

 留学したアメリカでフォトジャーナリストの道を選んだ私は、これまで世界の六十カ国を訪れました。レンズの向こうにあるのはいつも、きらきらとかがやく子供たちのひとみです。そして、たくさんの子供たちの中でも、南アフリカ共和国の少女マーガレット(マギー)・ンデュさんとは一番の友達になりました。

 南アフリカの小さな村で、キラキラと光るひとみのマギーさんと出会ったのは八七年のことです。当時四さいだったマギーさんとは、その七年後に南アフリカで再会し、今年の六月には札幌へ来てくれました。十七さいになったマギーさんの目のかがやきは、初めて会った時と同じでした。みんなも、いつまでもきらきらとした目のかがやきを忘れないでくださいね。

 聞き手・編集委員 戸坂 良夫


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