漫画家

しもん雅之さん
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 (1)学校と外では活発

 (2)家の手伝い大へん

 (3)遊び通じ注意力養う

 (4)前へ向かって生きて
◆しもんさん略歴◆

 1958年、北海道の東の端にある根室市に生まれる。76年に根室高校を卒業した後、「釣りキチ三平」などで知られる漫画家・矢口高雄さんの助手(アシスタント)を務め、86年に漫画雑誌「少年マガジン」(講談社)でデビューする。主に学習漫画など小・中学生向けの作品を発表。東京都目黒区に住む。本名は下栃棚正之(しもとちだなまさゆき)。


(1)学校と外では活発
 昨年の秋から、北海道新聞の日曜版で「星見が森の風太」を連さいしています。北海道のある小さな町を想像して作り上げ、その町にある北極小新聞部の子供たちがいろいろな遊びを通して野生動物などとふれあい、まわりの自然がいつのまにか傷つけられていることを知るという物語だけど、読んでいますか。

 ぼく自身のイメージは、この連さいまん画に登場する新聞部副部長・ケンチくんに近い感じで、物語のなかのできごとはだいたいぼくの体験にもとづいているんです。

 ところで、ぼくは根室の街から納沙布岬の方へざっと五キロの友知という海べの集落で生まれました。根室半島のまん中あたりで、近くの海はわんになっています。今はてい防がありますが、ぼくの子供のころはてい防はなくて、遠くまで浅い海が続いていました。

 父は漁師で、コンブ漁などをして暮らしていましたが、気が短かった。母は働き者で、しっかり者です。

 当時は、近くの家はどこも五人から七人ぐらいのきょうだいがめずらしくなかったけれど、うちは五つ年上の兄と二人だけです。でも兄は体が弱くて、入院と退院をくり返していたせいでしょうか、いっしょに遊んだ思い出はありません。

 ただ、家にはおばさん、おばあさんなどのほか、夏になるとアルバイトの高校生も住むので、全部で六人ぐらいになりました。

 馬も一頭飼っていて、馬車に使ったものです。

 通った学校は共和小中学校といって、人数が少なかったため、小学校と中学校がいっしょになっていました。

 家にテレビが入ったのが五さいのころです。それまでのぼくは、おとなの人の話では、家では静かにしていて、どこにいるかわからない、でもいつのまにかラジオのそばにいて、じっとひとりで聞き入っているという子供でした。だけど、学校と外では活発で、明るくて、社交的でした。ただ、ちょっとお調子ものだったですね。


(2)家の手伝い大へん
 夏休みにどこかに遊びに行った、という記憶はあまりありません。夏はコンブ漁たけなわで、漁業の家の子供はみんな家の手伝いをしたものです。

 今はコンブをかわかす立派な機械がありますが、昔は外で干すのがふつうで、たとえばコンブについた砂を落としたり、夕方にコンブを納屋にしまったり、小学生なりにできることをやったんですよ。夜は食事のあとも仕事があって九時か十時ごろまで手伝わされました。ねむくなるし、いやでしたけれども…。

 学校では勉強ができる、ということよりも、家の仕事をよく手伝う子供が“いい子”なんです。つまり、勉強ができるかどうか、テストの成績がいいかどうか、そんなことでよその子供と比べられる、ということはなかったんです。むしろ、あそこの子供はよく手伝う、と言われることが自まんになりました。

 でもぼくは、どちらかというとなまけものでしたね。中学校に進んで、いろんな友だちがいて、お父さんの職業もいろいろあることを知りましたが、サラリーマンの子供というのはうらやましかった。

 冬は馬の飼い葉づくりとかの手伝いをしました。馬車とか馬そりとか、馬は大切な動力源だったんですよ。夏は一家総出で牧草がりをして、ピクニック気分でしたね。馬のほかには綿羊も二頭飼っていて、綿羊の毛は、工場で毛糸と交かんされました。ぼくが子供のころに着たセーターは、母がそんな毛糸を編んでつくったものでした。イニシャルなど編みこんでもらうと、すごくうれしかった。

 ともかく手伝いはきびしかったけれど、こんなものだとわりきっていました。ただ、そうしたなかで、今でも忘れられない「幸せな時間」がありました。あれは一週間に一回ぐらいだったでしょうか、学校で担任の大山邦雄先生が「シートンの動物記」を読んでくれたのです。おとなの人に本を読んでもらうというのはすごく新せんで、ほんとにその時間が大好きになりました。

 おかげで図書館から本を借りて、仕事の合間に読むようになったんですが、それは今も変わりませんね。


(3)遊び通じ注意力養う
 家ではテレビを見るのが最大の楽しみでしたけれど、ほとんど父親がチャンネルを選んでいました。

 外での遊びについていうと、家の裏のがけ登りをよくしましたね。高さは二十メートルぐらいあったでしょうか。急なしゃ面を、木の根っことか植物のツルにつかまって登るんですが、何度かまちがってウルシの木にさわり、かぶれたこともありました。

 それに、空きかんに海の水を入れ、それでツブ貝をにてよく食べましたが、おなかをこわしたこともあります。これに似た話は日曜版の「星見が森の風太」にも書きました。

 冬は、スキーもしましたが、せいぜい裏山の坂をちょっとすべるくらいかな。というより家の近くに本格的にスキーのできる山がなかったんです。スキーに比べたら、スケートがふ通でした。学校にはリンクができました。

 これは学校でよく注意を呼びかける危ない遊びでしたけれども、正直にうち明けると、波打ちぎわの流氷に乗って遊んだことがあります。いかだ遊びのようなもので、短いさおであやつるんです。

 今から思えば、危ない遊びを通して、自然と注意力を身につけ、かんを養うようになったのかもしれませんね。でも、流氷乗りはほんとに危ないので、まねはしないでくださいね。

 これは中学生になってからのことですが、両親に内しょでとまりがけの自転車旅行をしたことがあります。家の手伝いもしないでごめんねという気持ちもありましたが、一度、テントをはって、とまってみたかったんですね。最後には顔じゅうカにさされて家に帰りました。父にはしかられました。

 どちらかというと、年上も年下も、みんなが集まってわいわい遊ぶのが好きな子供でした。なにか困った問題が起きても、みんながちえを出し合って解決するというのがいいんです。

 今から思うと、そういう子供のころの体験がたいへん役にたったと思いますが、それはあのころ、ぼくが通っていた小学校が中学校といっしょだった、ということと少しは関係があるのかもしれません。同じ年齢の子供とよりも、年上のお兄さんたちのところに遊びに行くのが好きでしたから。


(4)前へ向かって生きて
 最終回の今回は、ぼくが仕事にしているまん画との出合いについて話しましょう。

 実を言うと、まん画は、ぼくが小学校六年生のとき、病気で亡くなった兄の方がじょうずだったんですよ。ぼくがまん画家になったのは、きっとそのせいですね。

 兄は、じん臓が悪かったためよく入院していましたが、一カ月に一回くらい見まいに行くと、兄のところにまん画の雑誌があって、ぼくはそれをもらって、家に持ち帰りました。

 まねのようなものに過ぎませんでしたが、まん画をかくのが好きで、図画はずっと成績がよかったですね。でも、自分の絵はきらいだったんですよ。顔をかいてもまん画に登場する顔に似てしまって、イラストっぽいというか、いやでした。おかげでいまだに自分のかいた絵は好きになれないんです。

 五年生か、六年生のころでしたが、まん画を画用紙にかいて、文化祭で展示したことがありました。中学生といっしょの行事で、一枚何百円かで売り出しました。なにをかいたか、覚えていませんが、小学生で展示したのはぼくだけで、一枚三百円で売れました。もっとも、中学生のお兄さんたちの作品は五百円でしたけれど。

 自分で言うのも変ですが、ひとことで言うと、小学生のころのぼくは“クラスの中でちょっとまん画が得意な子”ぐらいな感じでした。

 でも、そのころから、将来も得意なまん画をやろうという気があったんですね。

 中学三年生のときだったかな、ある雑誌でまん画家のアシスタントをぼ集しているということを知って、応ぼしたことがありました。そのときは「高校生ぐらいになったらまた応ぼしてください」という返事をもらい、ことわられました。

 自分のオリジナルのようなものをかき出したのは、高校生になってからです。卒業して、いまは主に小・中学生向けのまん画をかいていますが、どちらかというと暗い子供をかくのはへたです。いまの子供たちには、いやなことがあってもマイナスに受け止めないで、前に向かってかべをつき破るように生きてほしいね。

 聞き手・編集委員 佐藤 孝雄


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