NHKアナウンサー

森田美由紀さん
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 (1)外で遊ぶのが大好き

 (2)バレリーナが夢だった

 (3)放送クラブで番組作り

 (4)大学で英文学学ぶ
◆森田さん略歴◆

 もりた・みゆき 1959年、札幌生まれ。83年に北海道大学文学部を卒業後、NHK札幌放送局のまちかどリポーターに。87年に職員になり、88年、東京に転勤。その後、NHKの顔ともいえる午後7時のニュースのキャスターなどを務めた。現在、衛星放送の「21世紀に残したい日本の風景」などを担当している。


(1)外で遊ぶのが大好き
 みなさんはどのようにお正月を過ごしましたか。わたしは今、NHKスペシャルなどの特別番組を担当しています。去年はボルネオ島の熱帯雨林のどうくつに行きましたし、2月には氷点下40度にもなるシベリアを訪ねることになっているんですよ。

 わたしが子供だったころのお正月というと、まずキリスト教の教会を思い出します。両親がキリスト教徒だったので、元日はおぞうにを食べたあと教会の新年礼拝に出たのです。それから家にもどり、家族そろって年賀状を見てから百人一首やトランプを楽しみました。

 わたしは生まれも育ちも札幌です。1959年(昭和34年)11月に札幌医大の付ぞく病院で生まれました。家族は会社員の父、主婦の母、三つ年下の弟、そしてわたしの四人です。子供のころは父の会社の社たくに住んでいました。

 幼ち園は南区真駒内のキリスト教会の明星幼ち園に通いました。家は藻岩山のふもとの石山通ぞいでしたから、バスで毎日通ったのです。幼ち園に通うにはかなりはなれていましたが、同じ社たくに住む幼なじみの男の子といつもいっしょだったので、バス通園を特につらいと思ったことはありませんでした。

 幼ち園のクリスマス会の劇では、思い出があります。わたしはキツネとウシの役だったのです。女の子にはマリア様とか天使とか星の役があったのに、わたしはなぜキツネとかウシなのかなと思ったことがありました。わたしは天使をやってみたかったので、これはちょっと残念でしたが、とにかくとてものびのびと楽しい幼ち園生活を送れたと思っています。

 幼ち園でも社たくでも、外で遊ぶのが大好きな元気な子供でした。父と母が後志管内真狩村の出身だったので、夏休みはよく真狩に行きました。父や母が子供のころ遊んだのと同じように、山や川で楽しく遊んで過ごしました。

 キリスト教会に親しんでいたために、幼ち園時代にはオルガンを習い始めました。これは中学校、高校時代まで続け、パイプオルガンにまで進みました。いままで続けていればよかったなと思うことがあります。


(2)バレリーナが夢だった
 幼稚園は遠かったのですが、小学校は自たく近くの札幌南小学校に進みました。

 小学校時代のわたしの夢は、なんといってもバレリーナになることでした。小さいころから見ていた雑誌で、バレリーナをめざす女の子が主人公のまん画や物語が多かったのであこがれたのです。その世界にすっかり入りこみ、バレリーナになることが当たりまえのように思いこんでいました。

 なにがなんでもバレリーナになりたいという一心で、3、4年生のころには、バレリーナになった自分のすがたを想ぞうして絵にえがき、それを父と母の目につく場所におき、わたしの気持ちを両親に知ってもらおうとしたりしました。

 そのかいあって、5年生のころからクラシックバレエを習い始めました。自分なりに打ちこみ、上達もしたと思っています。でも、子供心にも両親にお金の負たんをかけていることなどがわかり、結局2年ほどでやめることになりました。発表会には2回出ました。

 小学生のわたしといえば、どういうわけかとにかく忘れ物の多い子供でしたね。なにしろ学校に行くのにランドセルを忘れたことが何回かあったのですから。そして、習字の道具、笛、そろばん…。そのたびに母がとどけてくれました。

 勉強の方は、まだじゅく通いなどがさかんではないころでしたから、授業をしっかりと聞き、そのほかはそれほど勉強はしませんでしたが、せいせきはよかったですね。とくにきらいな教科というのもありませんでした。

 いまは放送局で仕事をしていますが、小学生のころはあまりテレビは見ませんでした。でも外国のドラマは大すきで、とくに「刑事コロンボ」は家族で楽しみに見ていました。父が絵がすきでよく画集を見ていました。わたしもそんな画集を見るのはすきでした。といっても絵をかくセンスはありませんでしたが。

 とにかく体を動かすのが大すきで、学校から家に帰ると社たくの友だちといつも走り回っていました。3つ年下の弟がわたしの後ろについて回るのですが、それをわずらわしく思ったことをおぼえています。

 何年かたって弟が一人でさびしそうに遊んでいる写真を見て反せいし、それからはけっこういいおねえさんになったつもりです。


(3)放送クラブで番組作り
 中学校はやはり地元の札幌市立柏中学校に、高校は札幌南高校に進学しました。

 中学では放送クラブ、高校では放送局(放送クラブ)に所属しました。といっても、アナウンサーを当時からめざしていたということではまったくありません。担当したのは「制作」という仕事で、番組を作る係でした。なぜ放送クラブに入ったかというと、自分の好きな音楽を昼休みなどに校内でかけられるからだったのです。

 中学時代はビートルズやかぐや姫、赤い鳥、高校時代は外国の歌手のデビッド・ボウイやクイーンが好きでしたね。中学校のときには学校の許可証をもらって須貝ビルにビートルズの映画を見にいったこともありました。ビートルズの曲では「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」がとくに好きですね。

 中学校の勉強では理科が苦手でしたが、英語、音楽、体育が好きでした。全体として中学校でも成績は良いほうで、高校受験のことはそれほど気にしていませんでした。それでも3年生のときに思ったより成績が良くなかったので、夏休みにクラスの友人とともに予備校の夏の講座を受けたことがあります。あちこちの中学校から参加した人たちの勉強ぶりを近くで見て、参考になりました。

 札幌南高は自由な学校で本当に楽しい高校生活が送れました。受験勉強はするのですが、なんとなくおっとりとしていてギスギスしていないのです。個性豊かな先生がたもみ力的でした。ふり返って一番楽しかったのは高校生活ですね。いまもつきあっている親友の多くは高校時代の友達で、いっしょに海外旅行に出かけたりしています。

 そうそう、高校2年のときには数学と物理のテストで0点をとったことがありました。答案用紙のマルはただ一つ、0点のマルだったのです。数学は高校1年まで好きだったのですが、なぜか2年でつまづき、まったく分からなくなってしまいました。物理の答案はびっしりと答えを書き、少しは点がつくかなと期待したのですが全めつでした。どうしたらよいのか分からず、でも同級生には言えず、先生に相談にいったことを覚えています。


(4)大学で英文学学ぶ
 なんとなく学校の先生になりたいという思いをいだきながら、北海道教育大学と北海道大学を受けましたが、合格しませんでした。でも、札幌南高の私のクラスでは半分以上が浪人でしたので、特につらいとは感じませんでした。

 初めは予備校に通い、しっかり勉強しましたが、ある時期から予備校の近くにあった市立図書館で時間を過ごすことが多くなりました。児童文学コーナーでルパンのシリーズやマザーグース、宮沢賢治の作品などを読みふけりました。

 1年後に北大文学部に合格することができました。入学して、北大の豊かな自然にふれ、とても感激しましたね。校舎の裏にはエゾエンゴサクやエンレイソウがさき、農場には大きなブタがいるのです。この大学で英文学を学びました。

 先生になりたいという思いを持っていたのですが、そのころ校内暴力が大きな問題になり、私で先生が務まるだろうかという不安をもつようになり、まずいっぱんの会社で社会人としての経験を積もうと考えました。

 本を発行する会社など何社かを受けたのですが、うまくいきませんでした。そのときは「私はだれからも必要とされていないのだろうか」と、とてもがっかりしました。

 思わぬきっかけからNHKの札幌放送局、さらに東京のNHKで仕事をすることになりました。生まれも育ちも札幌だったので、東京への転勤は「本当に行かなくちゃいけないの」と思いながらでした。初めのころは原こうに「手ぶくろ」ということばが出てくると、つい北海道弁で「はく」といいそうになってしまいました。あまり大きな失敗はありませんでしたが、ニュースの中で記者との会話が20秒もとぎれてしまったことがありました。

 NHKは女性のさまざまな可能性を引き出せる職場だと思っています。これからは「朗読」という分野にも取り組んでみたいと思っています。

 東京に暮らしてみて、ときどき「なにかが足りないな」と感じることがあります。それは、北海道と比べて空間が足りないということなんですね。北海道は大きな空間とすばらしい自然にめぐまれています。これをどう生かしてデザインしてゆくのか。北海道に暮らす人々の役割ではないかと考えています。

 聞き手・編集委員 嶋田健


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