コンサドーレ札幌・選手

名塚善寛さん
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 (1)忘れられない「五円屋」

 (2)楽しかった夏休みの江差

 (3)まずはキーパーから

 (4)楽しむことが一番
◆名塚さん略歴◆

 なつか・よしひろ 1969年生まれ。小学5年生からサッカーを始め、同県内の強豪校、市立習志野高校やフジタ工業で活躍。99年、Jリーグのベルマーレ平塚からコンサドーレ札幌に移り、2年間キャプテンを務める。92年のバルセロナ五輪代表選手。身長182センチ、体重72キロ。


(1)忘れられない「五円屋」
 昨年はコンサドーレ札幌への熱い応えん、ありがとう。サッカー好きのたくさんの小学生ファンが、ぼくらの試合を見に来てくれてうれしかったです。おかげでJ2での優勝とJ1しょう格を果たすことができました。

 ちょうど、この記事が新聞にのるころは、南半球のオーストラリアで新しいシーズンに向け、岡田かんとくや選手たちが合宿しています。今年はまさに勝負の年。強敵ぞろいのJ1のなかで、厳しい試合が続くと思うけれど、ぼくらががんばっている姿を見て、みんなもがんばってくれたらうれしいです。

 前置きが少し長くなりましたが、ぼくは三人きょうだいの末っ子として、東京に近い千葉県の船橋市で生まれ、市内の習志野台第二小学校に通いました。

 千葉と言えば、昔からサッカーの強い県として知られています。ところが、小学校高学年になるまでのぼくは、サッカーとはえんのない、内気で人見知りする子でした。

 とにかく、人と話をするのが大の苦手。いつも、三つ年上の姉、聖子の後ばかり追いかけていました。

 会社員の父、忠雄は書道の先生もしていて、団地住まいのわが家には子供やおとなが書道を習いにきていました。ところが、みんながいるのに、ぼくと四つ年上の兄、忠範がすぐけんかをするので、父からよくしかられました。

 そんな低学年のころに好きだった遊びのことは次回にふれますが、忘れられないのは百円玉をにぎりしめ、見知らぬ町へ友達と初めて自転車で買い物に行ったことです。

 「五円屋」という名前の店で、昔は子供の好きなおかしなどが何でも五円で売っていました。見知らぬ町と言っても、電車で二駅はなれているだけですが、子供のぼくにはすごいぼう険でした。

 コンビニ全盛の今は、こんな楽しい店が少なくなって、ちょっとさみしいですね。


(2)楽しかった夏休みの江差
 ぼくがまだサッカーを始める前の小学四年生ころまではよくメンコ、べいゴマ、野球などをして遊びました。

 べいゴマは、北海道の子供たちにはあまり知られていないと聞いたけれど、牛乳ビンのフタくらいの小さな金属製のコマをぶつけ合う遊びで、関東などでは昔から男の子に大変人気がありました。

 おやじといっしょにやったたこあげも、すごく楽しかったな。買ってきたたこではなく、竹や和紙を使って、自分たちでたこを作ったんだよ。絵は、もっぱら当時はやっていたマンガの主人公なんかをかきました。

 二−三年生のころだったかな。手づくりのたこが学校のグラウンドから、めちゃくちゃ遠くまで上がって感激したのを覚えています。

 とにかく、ぼくが子供のころは、友達もみんな外で遊びました。本州の子供たちは冬でも半ズボン姿がふつうなんだけれど、今はみんなテレビゲームに夢中になっているのか、家に閉じこもる子供が多いみたいだね。

 ある程度、仕方がないのかもしれないけれど、この記事を読んでいるみんなは、もっと外で遊んでほしいなあ。

 外遊びと言えば、母良子の実家が道南の江差町にあり、小学校の夏休みには、兄の忠範や姉の聖子とともに毎年のように訪れて、海岸でよく遊びました。みんなで魚をとったりして、楽しい思い出がいろいろあります。

 北海道には子供のときから、なじんでいたんですよ。コンサドーレ札幌に入ってからも、最初のシーズンオフの年末年始を江差で過ごし、久しぶりにおいしい海の幸を味わいました。町の人たちからも温かい言葉をかけてもらい、北海道は良いところだなあと、あらためて感じました。

 話はまた子供時代にもどりますが、学校の勉強のことにもふれなければなりませんね。前回話したように、会社員の父は書道の先生もしていたのですが、ぼくは国語が最も苦手で、漢字を書くのも父に似ずに、へたでしたね。得意科目は図工と体育でした。

 ついでに、好きだったテレビ番組は、「ウルトラマン」。この放送がある日だけは不思議と、朝の六時半前にパッと起きられました。


(3)まずはキーパーから
 ぼくがサッカーを始めたのは、生まれ育った千葉県船橋市の習志野台第二小五年生のときです。

 前にも話しましたが、千葉はサッカーの盛んなところ。でも、子供のぼくが最初に熱中したスポーツは野球でした。みんなは意外に思うかもしれないけれど、それまでは、サッカーのサの字も知らなかったんだよ。

 実は、サッカーを始めた理由も、地域の少年チームでやっていた野球がもっとうまくなりたいためでした。父から、足こしをきたえるにはサッカーが一番良いと言われ、それで、小学校のサッカーチームに入れてもらいました。

 ところが、サッカーの方が面白くなってしまってね。なぜか、って?。

 まず、なんと言ってもゴールを決めたときの喜びかな。それと、サッカーは絶えず動いていられるよね。自分が主役になれる部分が大きい。そんなところが、野球よりいいなと思いました。

 ぼくはコンサドーレ札幌でディフェンス(DF)をやっていますが、小学校では、ドッジボールが得意だったこともあって、まずゴールキーパーをやらされました。

 正直言って、練習はイヤなときもあったけれど、シュートの練習は大好きだったよ。それと、チームの中でミニゲームをするのがすごい楽しみだったな。

 ぼくはいつの間にかサッカーのとりこになり、毎日暗くなるまで校庭でボールをけっていました。五年生のとき、キーパーとして初)めて出場した大会「千葉県つよいこ杯」では準優勝したよ。

 小学生のサッカーはなにより、楽しくなくちゃあ。もともと無口な子供だったぼくも、サッカーを始めてからは、人前でちゃんと物が言えるようになりました。

 その後ぼくは、習志野台第二小から市内の坪井中学、さらに、同じ千葉県の市立習志野高校に進学し、中学、高校ともサッカー部の主将(キャプテン)を務めました。

 子供時代の話からはちょっと外れますが、最終回の次回は、プロへの道もふくめ、ぼくとサッカーとのかかわりを少しくわしく話したいと思います。


(4)楽しむことが一番
 ぼくが進んだ千葉県の市立習志野高校サッカー部は、全国高校総合体育大会(インターハイ)と全国高校サッカー選手権で、合わせて三回日本一になるなどサッカーの名門校として知られています。

 ただし、全国優勝したのは先ぱいと後はいたちで、ぼくらの時代は残念ながら、あまり強くなかった。日本一どころか三年間、全国大会に出ることもできなくて、キャプテンとしてくやしい思いをしました。

 でも、くやしさが次につながることって、あるよね。ぼくの場合、三年生の高校選手権が県予選の準々決勝で敗れ、なにか燃えつきないまま高校生活を終えたことが、かえってプロの道をめざすバネになった気がします。

 実は、卒業後はホテルマンになることが決まっていたんだよ。でも、やっぱりサッカーを続けたかった。

 習志野高でサッカーの厳しさを教えてくれた本田裕一郎かんとくにも相談して、社会人サッカーの名門、フジタ工業の入部テストを受け直し、合格できました。

 ぼくは一日中、机に向かって仕事をするサラリーマンは似合いません。でも、フジタ工業では最初、お金をあつかうかた苦しい仕事を命じられ、上下のスーツにネクタイをして、東京の新宿で銀行回りをしたんだよ。

 といっても、他の社員とちがい、仕事は午前中だけで終わって、午後からはサッカーの練習をする毎日でした。

 やがて、プロに近いあつかいを受け、試合に勝つと、「勝利給」という名で二万五千円が会社から出ました。

 ぼくは一九九二年のバルセロナ五輪の日本代表に選ばれました。その後、Jリーグのベルマーレ平塚《現在の湘南ベルマーレ》からコンサドーレ札幌に来たことは、みんなの知っている通りです。

 よく、「どうしたらサッカーがうまくなるか」と聞かれます。日本人には、サッカーだけ、あるいは野球だけ、というタイプが多いけれど、子供のときはいろいろなスポーツに親しんでほしいな。

 そして、小学生のサッカーは、とにかく楽しむこと。そこから始まると思います。

 聞き手・編集委員 上出義樹


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