小説家

谷村志穂さん
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 (1)虫好きだった「泣き虫」

 (2)「ドリトル先生」大好き

 (3)心に残った「飼育係」

 (4)図書館で見つけた宝物
◆谷村さん略歴◆

 たにむら・しほ 1962年、札幌市生まれ。北大農学部卒業後、雑誌編集者などを経験して小説家に。90年、独身女性の結婚への考え方をつづった「結婚しないかもしれない症候群」がベストセラーとなる。札幌を舞台にした「14歳のエンゲージ」など、これまでに書いた本は約30冊。東京都世田谷区在住。


(1)虫好きだった「泣き虫」
 もうすぐ新入学、新学期シーズンですね。みなさんは、学校へ行く準備や進級する心構えを整えましたか。私は作家としてデビューしてから、十二年目になりました。最初の出版は「結婚しないかもしれない症候群」という本です。みなさんにはまだ難しい内容ですが、多くの人に読まれテレビドラマにもなったんですよ。

 私は札幌の白石区で生まれました。両親とともに二階建てのアパートの一階に住んでいました。「はいはい歩き」のころからじっとするのがきらいで、母が目をはなしたすきに何度も、二階に住む知り合いのおねえさんのところへ行っては連れもどされていたそうです。おねえさんが留守だったある日、ひとりで階段を下りようとして、頭から転落して大けがをしました。傷あとは今も残っていますが、両親にとても心配をかけてしまったできごとの一つです。

 少し大きくなって保育園に通いました。本当は幼稚園に行くはずだったんですが、とても性格の乱暴な子がいて、気の弱い私がこの幼稚園をいやがったからなんです。「泣き虫」でもあった私は、このころから「昆虫」に興味を持つようになります。

 当時、自宅の周りには自然がいっぱい残っていました。ひとりでキュウリやナス、トマトの植えられている畑などに行っては、イモ虫や毛虫をはじめどんな虫でもじーっと観察していたんです。どうして虫が好きになったのかは覚えていませんが、クモを見ているのも大好きでした。

 両親や近所の人たちからは「虫好きの志穂ちゃん」と呼ばれていたんですよ。後に大学で、野生動物の研究を始めるようになったのは、この時に決められたことだったのかもしれません。

 虫ではショックなこともありました。母の誕生日に、空きかんいっぱいのカタツムリをプレゼントした時です。うれしそうだった母は、すぐに「きゃっ」と言ってかんを床に落としてしまいました。一生けん命集めた自分の大好きなものが、母を喜ばせるどころか、おどろかせてしまったことは、とても悲しい思い出となっています。


(2)「ドリトル先生」大好き
 保育園から小学校へ入学するころの私は、体はとても小さかったのですが、男の子のように元気いっぱいでした。テレビの人気アニメだった「オバQ(キュー)」の絵がプリントされたTシャツが大のお気に入り。夏は毎日のようにそれを着て、野菜畑へ行ってはクモやカタツムリ、チョウなどを観察することに夢中になっていました。

 私の家は何回か引っこしましたが、当時の家の近くには牧場もあって、馬や牛もたくさん見ることができました。父の仕事が休みの日には、その牧場や近所の小川、草原に連れていってもらい、オタマジャクシを持ち帰ったりしたんですよ。オタマジャクシがカエルに成長して自然の中に帰っていく姿は、今でも楽しい思い出になっています。

 このころから、私の楽しみの一つに読書が加わりました。私は早起きでしたが、冬の朝は燃え上がるのに時間がかかる石炭ストーブだったので、母が「もういいよ」と言うまで、いつもあめ玉をしゃぶりながら布団の中で本を読んでいました。

 昆虫図かんや動物の言葉を話せるじゅう医のドリトル先生が大冒険をくり広げる「ドリトル先生航海記」などが大好きでした。あめ玉は虫歯になるからやめてほしいのですが、イギリス生まれの児童文学者ヒュー・ロフティングという人が書いた「ドリトル先生」シリーズ《全十二巻》は、ぜひみなさんにも読んでもらいたい本です。

 私は小さいころから、本当に動物と本、そして、自由に動き回ることが好きでした。おとなになって大学で野生動物を研究し、小説家になる道を選んで、国内や海外を旅しているのは、子供のころの夢を忘れないでいるからだと思います。

 小学校は、家の近くにある田んぼのあぜ道を通って二十分ほど歩く北郷小に通いました。最初のうちはランドセルが重いし、友達をじょうずにつくることもできなくて、学校へ行くのがとてもいやでした。算数の「九九」を覚えるのも得意ではなかったのですが、三年生になったころからは、学校での生活にも少し自信が持てるようになりました。


(3)心に残った「飼育係」
 私の家族は、父の邦弘と母の洋子、三つ年下の妹の由美です。当時の国鉄《今のJR北海道》職員だった父は、休みの日によく私をオートバイに乗せて、いろいろなところに連れて行ってくれました。札幌市内の羊ケ丘の展望台や手稲山などへも行きましたが、多くは近くの小川や草原で馬や牛をながめ、昆虫を探したりしました。

 そして、家への帰りには必ず北大のキャンパスに立ち寄りました。いつも二人でしばふに座り、牛乳を飲みながらジャムのついたパンを食べるのです。そのころの私にはとてもおとなに見えましたが、長いかみの女子学生が本をかかえ、ゆっくり歩いている姿にあこがれたのを覚えています。

 母は、編み物や園芸が大好きでした。私の昆虫観察は、母が作った野菜畑が一番の場所だったんです。妹の由美は私とはちがって、お人形さん遊びなどが好きでしたが、二人は近所でも評判の仲良しでした。私が自転車に乗れるようになったばかりのころ、妹を後ろに乗せて転んでしまい、妹の顔中にすり傷をつくってしまった大失敗もあります。

 小学校へ行くのがいやだったことは、前に言いましたね。算数がきらいだったし、国語も詩人で童話作家だった宮沢賢治の「雨ニモマケズ」という詩をクラス全員で唱和させられるのが、どうしてなのか納得できませんでした。給食の時、牛乳を飲めない男の子に、無理やり飲ませようとする先生にも腹が立ちました。「もっと自由にしてくれたらいいのに」と、学校ではいつも気持ちが重たかったんです。

 三年生の冬、札幌オリンピックが開かれました。このころから、私も学校が少し楽しくなってきました。仲の良い友達がたくさんでき、小がらだった私の身長ものびたし、かけっこのリレー選手として活やくしたのが自信となってきたからだと思います。

 学級委員にも選ばれましたが、何よりも思い出に残っているのは学校で飼っていたウサギや小鳥、金魚の世話をする「飼育係」になったことでした。毎日、一生けん命動物たちの世話をしたんですよ。


(4)図書館で見つけた宝物
 みなさんは、昆虫や動物たちが、自分に何かを話しかけていることが分かったような経験がありませんか。私は、小学校で飼育係としてウサギたちの世話をしていたころ、動物たちと心が通じあっていたような気がします。

 家ではいろいろな昆虫を飼っていましたが、ある朝、さなぎの一つが「そろそろよ」って教えてくれたんです。急いで学校から帰ると、さなぎの背中がビリビリと割れて、立派なチョウチョウが誕生しました。そんなことが何度もあり、とてもうれしかったのを覚えています。このころは、動物の研究者か、自然や動物を守るレンジャーのような仕事にあこがれていました。

 中学校は札幌の手稲中学へ入学し、と中から新しくできた稲陵中学へ通いました。テニス部へ入りましたが、勉強はあまりせず、少し不良っぽい中学生でした。理由はよく分からないのですが、学校やおとなに反こうしたかったのだと思います。昆虫や動物たちへの興味も失ってしまいました。

 札幌西高へ進学してからも、そんな態度はあまり変わりませんでした。でも、図書館へはよく通いました。子供のころから本を読むのは大好きでしたからね。いろいろな作家の本を読み、たくさんのことを学びましたが、フランスのフランソワーズ・サガンという人の作品などが私のあこがれでした。

 図書館は、キラキラと光る宝物がいっぱいあるところです。ひとりぼっちでなやんでいるとき、心が苦しいとき、助けてはくれないけれど、友達をつくるような出会いがある場所だと思いますよ。

 私は北大へ入学し、農学部で野生動物を研究しましたが、教授とも相談して、小説家への道を選びました。いま、北海道新聞社の月刊誌「道新TODAY(トゥデー)」に、函館に近い南茅部町をぶ台にした小説「海猫」を連さいしています。美しい四季がはっきりしている北海道は、独特の生命感と力強さがあると思います。みなさんがこのふるさとで、のびのびと成長してくれることを願っています。

 聞き手・戸坂良夫


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