タレント

大泉洋さん
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 (1)笑わせることが大好き

 (2)家族旅行で落語のテープ

 (3)小学校ではもてたのに…

 (4)行事でお笑い 台本書く
◆大泉さん略歴◆

 おおいずみ・よう 1973年、江別市生まれ。北海学園大経済学部卒業。在学中に劇団「TEAM−NACS(チーム・ナックス)」を結成するなど演劇活動を始め、テレビ番組などに出演する。現在、「劇団イナダ組」にも所属し、HTBなどテレビやラジオ番組で活躍中。CM出演も多い。札幌市在住。


(1)笑わせることが大好き
 昔の話をする前に、子供のころの夢がかなった今の活動のことにふれていいかな。というのは、札幌の映画館で2001年4月6日まで上映された鈴井貴之監督の初めての映画「マンホール」にぼくも出演していて、7日からは函館や北見など道内5カ所で上映会とトークショーのツアーを行うってことです。

 映画では、ぼくはふ通の生き方からちょっとはずれた、気のいいお兄ちゃんの役柄ですが、そんな自分というものにいま一つ満足していません。でも、だからといってそんな状態からぬけ出すこともできなくて…。

 見終わった後はすがすがしくって、ちょっとあしたもがんばってみようかなという気持ちになれると思います。

 それにしても映画なんて、子どものころは夢のようにしかみていなかった世界ですが、そこに実さいに自分が出れたというのはほんとに信じられないくらいです。それもちゃんとした映画でしょう。

 小学校のときからお笑いにしか興味がなかった人間にとっては、この映画出演を通してほんとにちがう世界を見せてもらったという印象ですし、おかげで一つの自信がつきました。

 さて、ぼくは江別で生まれ、小学校5年生のときに江別から札幌の小学校に転校しました。父も母も学校の先生で、兄弟は7つちがいの兄が一人いました。

 そうだ。小学生時代を話す前に、保育園のときのことを思い出します。というのもぼくは4さいぐらいから人を笑わせるのが好きでした。保育園では保母さんを笑わせるのがうれしかったので、保育園に通ったというよりはむしろ保母さんを笑わせに行ったという感じで、明らかにおとなが笑うのがおもしろかった。

 昔で言うと、人前でずっこけてみせたりして、なにかおませな子供だったんじゃないかな。

 そうそう、最初にやった物まねが当時の人気映画「男はつらいよ」で「フーテンの寅さん」を演じた渥美清だった、という思い出があります。われながらちょっとおかしい子供だよね。


(2)家族旅行で落語のテープ
 前回、小学校に入る前から人を笑わせるのが好きだったと話しましたが、入学してからもちょっと変わった小学生でした。あの当時、周りのふ通の低学年だったら、セミのぬけがらやザリガニを取りに行こうとか、サンショウウオを見に行こうとか、そういうさそいをよく受けていたようですが、ぼくは興味をもてなかった。

 プラモデルを集めたり作ったりとか、あるいはファミコンに熱中するとか、そんなこともなかった。家であれこれ遊び道具を買ってほしいと親に言ったこともあまりないですし、そういう意味ではもはん的な小学生だったんじゃないかな。もちろん、周りと一緒になってそんな遊びもしましたけれど、たいして楽しいと思ったことはありませんでした。

 それよりはむしろ横からちゃちゃを入れたり、しゃべったりしている方がよかったですね。あとはテレビを見て…。もう、とにかくおかしなことを言って、げらげら笑っているのが楽しくて、おじさんみたいな小学生でした。

 体育は好きでしたが、サッカーとか野球にはそれほど熱中はしませんでした。かん境の変化がきらいなので、旅は好きじゃなかった。今はタレントの仕事の関係で旅ばかりしてますが…。

 でも、旅といえば、車に乗って家族旅行するとき、わが家では落語のテープが流れていましたね。ぼくは親たちが落語のテープを聞いて笑っているのをみて、一緒になって笑っていました。小学生のときから落語に親しんでいて、テレビの落語の人気番組「笑点」なんか見てましたね。

 そのせいか、高校時代のときのことですけど、芸術かん賞の一つとして落語の口演があったとき、周りの生徒のだれもが、落語なんか聞きたくもないというようすを見せるなかで、ぼくだけが楽しみにしていたのを覚えています。

 今まで一貫して、しゃべっているのが好きですが、学校の通知表に書かれることはだいたい決まっていました。

 「たいへん元気で、周りを楽しくさせるムードメーカーではありますが、たまに、はめをはずしすぎるところがあります」というのが決まり文句で、ぼくはいわゆる、うるさい子だったんです。


(3)小学校ではもてたのに…
 物心ついてから、ほんとにずっと人を楽しませることが好きでした。それもテレビを見て、いろいろなタレントさんの物まねをしていたんだと思います。笑わせるための特別な勉強? そんなことは別にしません。

 とにかく本を読んだり、ラジオを聞いたりする子どもじゃなかったし、今でもそうなんですが、いわゆるしゅ味がないんです。

 小学校の低学年のころテレビでおもしろかったのはザ・ドリフターズとか、三波伸介とかの番組。特に「お笑いスター誕生!」には熱中しました。ぼくはそんなテレビのえいきょうを受けていたんでしょうね。お笑いにしか興味がなかった。

 母はよく、テレビばかり見るな、と言ったけど、いま思えば、たぶんテレビを見つづけたおかげで、いまのぼくがあるんだろうなと思います。でも、だからといって、テレビにあこがれ、芸能人になってやろうとか思ったことは全然ないんです。自分がこのタレントの道に入るなんて全く思っていなかったし、なれるわけがないと思っていました。

 がり勉でもないし、勉強は好きじゃなかった。ただ、全くしないかというとそうでもない。ふ通ていどの勉強をするという感じでした。ですから、成績はずっとまん中へん。悪くもなく良くもなし。中学のときは美術、技術家庭、体育なんかは成績が良くて、うらやましがられたけど、英語や数学、社会とかはふ通でした。

 それから、小学校のときはすごくもてました。小学生ってのは、スポーツができる子ももてますけど、それ以上におもしろい子がもてますからね。ところが、中学、高校、大学とどんどんもてなくなりました。ぼくは、おもしろいだけ、でしたからね。だから、小学生のときが、ぼくの一番はなやいだ時期でしたね。ほんとにかがやいておりました。

 中学のときはずっと脚が長いおにいちゃんでね、それだけが自まんでした。脚だけはばかにされなかったんです。それが高校になって、あれっ、そんなに脚が長くないぞと思い始めて、何でか?と思ったらなんのことはない。すごく胴がのびまして、結局、ふ通の体つきになってしまいました。


(4)行事でお笑い 台本書く
 父と母はともに教員でしたが、だからといって子どもの自分が勉強できなきゃいけない、というプレッシャーを感じたことは特にありませんでした。また、そういう両親では全然なかったですから。

 もちろん、テレビばっかり見るなとはさんざん言われ、勉強しろとも言われました。それから本を読みなさいとか、ニュースを見ろとか…。

 でも、これはくり返しになりますが、テレビを見たおかげでいまのタレントとしてのぼくがあると思うんです。それに、内心では目立ちたがりやだった。ただ、学芸会なんかで自分から進んでいい役をもらおうとか、自分から表舞台に立つという子どもじゃなかったですね。

 だけど小学校のときも中学校のときも、学校行事に関連した出し物なんかがあるときは周りから、なにかやれってつきあげられました。クラスでは、お笑いとなればやはり大泉、というふうにみられていましたからね。もっとも、基本的には、やだよーと断っていました。でも、ここは大泉しかいないだろうなんて先生からも言われると、じゃやるかって…。

 そういうときは自分なりに、人を笑わすために一生けん命でした。特に人前で何かやるというときは、子どもながらにきちんと台本を書いたものです。だって、計算して笑わせないといけないし、その作業は今と変わっていません。

 中学3年生のときの三者面談か家庭訪問で、先生が、人を笑わすことが好きな子どもですから、将来はヨシモト(吉本興業)はどうですか、大泉くんはそういう道も考えていいかもしれないと、本気で言ったことがあるんです。そのとき母は、何を言ってんだとおこったことを覚えています。

 ほんとにめぐりあわせというか、いま実際にぼくがこの世界に入って、母ははずかしくてあのときの先生には会えない、と言っていました。

 それに両親は今でもこの仕事をやめろ、ちゃんとした職業についてほしいと言ってます。やはり、教師になってほしかったんじゃないですか。でも、ほんとにありがたいと思うのは、両親は何事もおしつける人じゃなかったということですね。
 
 聞き手・編集委員 佐藤孝雄


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