エッセイスト・美容師

黒柳眞理さん
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 (1)名におばあちゃんの願い

 (2)忘れられない悲しいこと

 (3)高校やめバレエひとすじ

 (4)足をねんざ美容師の道へ
◆黒柳さん略歴◆

 くろやなぎ・まり 1944年、東京都生まれ。バイオリニストの父、黒柳守綱(もりつな)さん、エッセイストの母、朝(ちょう)さんの二女。タレントで俳優の徹子さんは姉。6歳でバレリーナを夢見て学校で学んだが、19歳でけがをし、美容師に。10年前から札幌で美容院を開き、エッセーを書いたり、講演会で活躍中。


(1)名におばあちゃんの願い
 私が神奈川県の鎌倉市から札幌に移り住んで、今年で十年になります。美容院を開きながら、「エッセー」という文章を書き、あちこちの町や村に講演に行ってお話をしていますが、たくさんの人たちと仲良くなりました。

 母のふるさとが滝川で、北海道との結びつきは昔からあったのですが、実際に住んで、とてもすばらしいところだと思いますよ。

 講演に行くと、いつも「そっくりね」といわれます。姉でタレントの徹子と、よく似ているというのです。自分では「そうかなあ」と首をかしげ、「きょうだいといっても、みんなちがうのよね」と心の中で思うのね。みんなも、そう思うことって、ない?

 私が東京で生まれた時は、太平洋戦争の真っ最中でした。父が戦争に行き、おばあちゃんや母と家族全員で青森県に引っ越しました。生まれて数カ月の私は母に背負われ、ぎゅうぎゅうづめの列車で行ったそうですが、おむつなど取りかえてもらえなくとも泣かなかったということです。

 戦争が終わって家族は東京にもどり、大田区の洗足池という池に近い自然がいっぱいのところに住みました。私は大好きなおばあちゃんに遊んでもらい、いつものびのびしていた記憶があります。

 そうそう、私の「眞理」という名前はキリスト教を信仰しているおばあちゃんがつけてくれたのですが、「聖書」にたくさん出てくる「真理」ということばから取ったわけ。つまり「本当のこと」を大事にしてほしい、という願いがこめられているのね。

 そのころから私は、どちらかというと一人遊びが好きな子だったわね。近くにサクラがきれいな桜山があり、池でザリガニをとったり、まりつきをしたり。中でも、とっても気に入っていた遊びがあるの。庭の土をほり、そこにきれいな花なんかを入れて、ガラスでふたをしたあと土をかぶせておきます。ときどき土をのけて、私の宝物をながめるの。楽しかった。

 同じころのできごとかな、今でも悲しくなる思い出があります。来週はそのお話をしましょう。


(2)忘れられない悲しいこと
 戦争が終わったのに、父はソビエト連ぽう(現在はロシア)のシベリアという寒さの厳しいところに連れて行かれ、そこで四年間も過ごしたのです。家に帰ってきた時、私は五さいになっていました。

 父はバイオリンをひく音楽家で、帰ってきてからすぐに東京交響楽団のコンサート・マスター(楽団を代表する演奏家のこと)になりました。のちに父と同じくバイオリンをひくことになる兄に、とってもきびしく教えていました。兄は友だちとなわとびをしながら、メンデルスゾーンの「バイオリン・コンチェルト」という曲をくちずさんで、忘れないようにしていたほどです。そんな父って、こわいなぁと思っていました。

 小学校二年生のころかな、とっても気になることがありました。おとなりの家に、同じ小学校の二人の女の子がいました。お母さんが家からいなくなり、お父さんと三人で暮らしていましたが、貧しく、お父さんは子供たちをしかってばかりいたのです。

 私も子供だけれど、「助けてあげなきゃ」と思って、家からこっそりヌカミソや「貝柱」などの食べ物を持っていっていました。そしてうちの庭でとれたまだ青いモモの実をあげたら、これを食べた子がおなかをこわしてしまいました。ごめんなさい、と心であやまって、私がいけなかったんだと悲しい気持ちになりました。

 でも、あの二人がくれたおにぎりの味は今でも忘れられません。白いお米がないのでムギごはんなんだけど、おミソをつけてシソの葉で両側をはさみ、油であげるのね。二人はおそらく、とても不幸だったと思うけど、あんなにおいしくて、人によろこばれる物の作り方を知っていたんですね。

 相変わらず一人遊びの好きな私は、公園でブランコに乗り、勇気をためすためにぐんぐんこいで遠くに飛んで、ひざをひどくすりむいたりしていました。

 すりむけたひざ小ぞうにかさぶたができ、もうなおったかな、と思ってはがすと、まだ血が出る。あの二人の子もきっと毎日、心の傷から血を流していたんだ、と思うの。それを今も私が忘れないことが、大切なんだと考えています。


(3)高校やめバレエひとすじ
 六さいの時からバレエを始めました。父がバレエ好きで、私は気がついたら、とりこになっていたのね。家の近くのバレエ学校に通いましたが、けいこ場がすてきだった。おどっている時が一番しあわせでした。

 バレエのけいこと学校の勉強の両方を続けることは、そんなに大変なことじゃなかったわ。母のエッセー集「チョッちゃんが行くわよ」の中に、私のことを「学校でもまじめできちょうめん」と書いているけど、そうね、その通りかもね。二年生から六年生まで学級委員をしていましたが、そこでのリーダーシップが今役立っている、と思う。

 先生が通知表に書いてくださったことばを、今でもおぼえているわ。ある年は、「答えがわかっているのに手をあげない」と暗い子のように書かれ、ある年は「明るくて、よい子」。先生によって急に変わるのね。

 中学から高校へ、バレエのけいこは続きます。高校二年のなかばごろ、毎日バレエに打ちこみたくて、学校を中退しました。通っていたのは、チャイコフスキー記念東京バレエ学校。そのころ、ソ連(今のロシアのボリショイバレエ団)やレニングラードバレエ団が日本にやって来て、私たちバレエ学校の生徒といっしょに各地で公演しました。札幌でもおどったのをおぼえているわ。

 当時、私は十七、十八さい。食べざかりなのに、太ってはいけないので食べられない。せいぜいリンゴぐらいかしら、食べていたのは。信じられないでしょ(まねなど、しないでね)。でも、大好きなバレエを本当にじょうずになりたかったですからね。

 それが昔の思い出となった今も、まちのパーラーでパフェを食べている子を見ると、つい、「あー、いいのかなー」って考えて、にが笑いしちゃう。それほど、私にとってバレエは大切なものだったのね。バレエのためには、「ほかにしたいことができなくてもいい」とさえ思っていたし、ひとつのことに打ちこむときは、そういうきびしさも必要なのよね。

 そして、十九さいのある日、私にとって大事件が起きてしまいました。


(4)足をねんざ美容師の道へ
 自分にとってかけがえのないもの、それはバレエだと思っていた十九さいの私。あの日のできごとは、今思い出しても悲しくなります。

 バレエ学校の二階のけいこ場で着がえをすませて階段をおりるとちゅう、足をふみはずして、左足首をねんざしてしまいました。とても重いねんざで、もうステージに立つことはあきらめなければなりませんでした。

 そんなある日、母がいいました。「美容師になってみたらどうかしら」と。母はやはり、小さいころからの私を、よく見ていてくれたんだ、と思いました。私は前に、一人遊びがとくいな子だったといいましたが、好きな遊びのひとつが、お人形だったのね。いつもお人形をだいて、かみをあれこれいじったり、服を着せかえたり。

 じつは、ボリショイバレエ団やレニングラードバレエ団といっしょに日本の各地で公演していた時も、バレリーナのかみを結ってあげていたの。母はそれを知っていたのね。

 私は美容学校に入り、美容師の道をあゆむことにしました。美容師として、どうしたらこの人をもっとすてきにしてあげられるだろう、と考えることって楽しいものよ。仕事をしながら、いろんなお話をして、お客さまに気持ちもかみもかがやいていただければ、と考えています。

 十年前に札幌に来た時、タンポポのわた毛のように自由に飛んできて、北海道に根をおろす自分を思いうかべていました。それが、本当にしっかりと根を張った。そして、うれしいことに、またバレエをおどれるようになったのよ。三十五年ぶりにステージに立ち、おどった曲は「アベマリア」。神様が、美容師になって一生けん命に生きていこうと決意した私に、ごほうびをくれたのです。講演でお話をしたあと、ときどきおどりを見てもらうこともあるのよ。

 先日、耳の病院に通っていた時、子供たちがたくさん来ていました。その中に、目がキラキラとかがやいている子がいました。相手の心を明るくしてくれる光を感じて、私の目もかがやいてきました。いつも、いつもかがやいていようね。
 
 聞き手・編集委員 千龍正夫


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