フォトジャーナリスト

長倉洋海さん
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 (1)生活の中心にお店

 (2)将来のゆめは旅行家

 (3)探検部の活動に熱中

 (4)世界たずね写真とる
◆長倉さん略歴◆

 ながくら・ひろみ 1952年、釧路市生まれ。77年、京都にある同志社大学法学部卒業、時事通信社に入社。80年にフリーのカメラマンとなり中南米、アフリカ、中東、東南アジアなどを取材。写真集「マスード 愛しの大地アフガン」のほか「フォトジャーナリストの眼」など多数の本を出している。


(1)生活の中心にお店
 わたしは一九五二年に釧路市で生まれました。「洋海」という名は父方の祖父がつけれくれました。せんそうに負けた日本は、海をこえて世界の人々となかよく交流しなければならない、という思いをこめた名前だそうです。

 わたしはおとなになってから、せんそうをしている外国の国々や人びとをたずね、写真をとる仕事を始めました。心配した父は「おじいちゃんがこんな名前をつけたからだ」とこぼしたものです。

 父と母は、釧路駅の北側で野さいや魚、雑貨などを売る小さな商店を営んでいました。このお店は住たくもかねていました。母方の祖父母もいっしょにくらしていて、とてもにぎやかな家庭でした。

 じゅう業員などいませんから、家族みんながはたらきました。店のおくの部屋でちゃぶ台をかこんで食事をしていても、お客さんが来るとだれかが相手をしなければなりません。わたしも小さいころから手つだいをしていました。わたしは、いまでも食事をするのがとても速いのですが、実はこのころの生活で身につけたくせなんです。

 父も母もはたらき者でした。父は毎日朝早く、商品の仕入れに出かけました。ときどきわたしもいっしょに出かけて手つだいました。父のバイクが品物でいっぱいになると、わたしがそれを自転車につんで先に店に帰るのです。生活の中心にお店がありましたね。

 店がいそがしいので、母はあまりわたしのめんどうをみることができませんでした。近くの保育園に通ったのですが、おべん当の中身が友だちのものにくらべて地味だな、と思ったことをいまでもおぼえています。いそがしい母のかわりに祖母がよくめんどうをみてくれました。だから、わたしはおばあちゃん子だったのです。

 商売中心の家庭に、なんとなく不満も感じていたのですが、それを補ってくれるものもありました。たとえば、近くにあった引き揚げ者住たくです。せんそう中に外国に住んでいた人たちが日本に帰ってきて住んでいたところです。

 ここでは家の前で魚をやいたり、当時はめずらしかったテレビをみんながなかよくいっしょに見たりと、活気あるくらしが目に見える楽しい場所でした。なんでも教えてくれ、あちこちにつれていってくれるやさしいお兄さんたちもいました。


(2)将来のゆめは旅行家
 小学校は自宅近くの共栄小学校に通いました。釧路はとても寒いのですが、雪はそれほどつもりません。冬は通学路がこおるので、家からスピードスケートをはいて通ったこともありました。

 二さいちがいの弟はとても成績がよかったのですが、わたしは「3」が多く、自まんできる成績ではありませんでしたね。

 近くの引きあげ者住宅のお兄さんに連れられて、早朝割引のえい画館に連れていってもらったことをおぼえています。当時はラジオもよく聞きました。タンスの上にあるラジオを苦労しながら選局し、こどものさむらいが活やくする「赤胴鈴之助」などを一生けん命に聞きました。

 家から十五分ほど歩くと、湿原の続きのような谷地がありました。虫取りのあみをもって魚をとったのも楽しい思い出ですね。当時、体はじょうぶだったのですが、どうも弱虫だったようですね。けんかしてもすぐ負けて、こらえきれずに泣いてしまう方でした。

 中学校は共栄中学校に進みました。一年生のときだったと思いますが、社会の地理の勉強で先生にはげまされ、よいせいせきをとったことがありました。初めて先生にほめられ、これがきっかけになって、やればできるのだと思うようになりました。スポーツは得意ではありませんでしたね。クラブ活動はバスケットボール部に入ったのですが、すぐにやめてしまいました。

 理科はちょっと苦手だったのですが、国語でも先生に作文をほめられ、文章を書くことがすきになりました。二年生のときにまわりから「釧路湖陵高校に入れるかもしれない」といわれ、それから社会、国語、英語を中心にこつこつと勉強するようになりました。

 友だちのなかには、ちょっと不良の人たちもいました。あまり大きな声ではいえませんが、テストのときに答えを見せてあげたこともあります。

 いまから思うと、外国のことに関心を持つようになったきっかけは中学校の社会科だったといえるでしょう。二年生のときの進路にかんするアンケートで将来のきぼうを「旅行家」と書いたところ、父に「そんな職業はない」とたしなめられたこともあります。まん画雑誌のぼうけんものを読むのもすきでしたね。

 そうそう、三年生のときには、同級生の女子からつきあってほしいと、ラブレターをもらったこともありますが、返事は出しませんでした。


(3)探検部の活動に熱中
 高校は落ちるかなと思いながら釧路湖陵を受け、合格しました。おそらくぎりぎりで入ったのでしょう。

 高校時代の自まんは「はやめし、いねむり、ちこく」でした。あまり良い生徒ではなかったかもしれません。クラブ活動は弓道部に入りました。ラグビーやアイスホッケーはかっこいいなあと思ったのですが、こういう激しいスポーツはわたしにはできそうもないと考えていました。

 当時は日本の政治のありかたをかえようという動きが大学生などの間にありました。釧路の高校でもそのえいきょうを受けて、先生を批判したり、まちをデモ行進したりするような活動がありました。

 毛沢東という中国の指導者の文章を集めた本をかしてくれる友だちもいました。そこには、自分のことを考えずにたくさんの人たちのために働くという「人民に奉仕する」という考え方が書かれていました。でもなやんだすえに、わたしにはそういうことはできないだろう、という思いにいたりました。敗北感を感じましたね。

 高校は丘の上にあり、登下校のときにはいつも川とその先の海が見えました。自分が住んでいる世界の外へのあこがれのようなものがだんだん強くなっていきました。北海道の外に出たのは二年生のときの修学旅行で、東京、京都に行きました。京都はいいなと思いました。

 外へのあこがれの裏には、釧路は日本のはずれにある、中央ではないという思いがあったのかもしれません。いまはまったくそういう考え方はしないのですが、ちがうところへ行けば、ちがう自分がみつかるのではないかと思っていました。

 大学は京都にある同志社大学に入りました。理科系が苦手なので入学試験に理科系の問題が出る国立大学はむずかしいと思い、私立の同志社を選びました。

 法学部に入ったのですが、探検部の前におかれていた白い四輪駆動車にみ力を感じて探検部員になりました。それからは、勉強そっちのけで手作りいかだでの日本海ひょう流、岩登りなどに熱中しました。私は、外国に住む人びとの暮らしぶりなどを調べる「異民族調査」を新しい活動として始めました。いまの仕事の道具となるカメラと出合ったのはこの探検部のなかででした。結局、大学には六年間もいることになりました。


(4)世界たずね写真とる
 大学二年生のときに南太平洋の小さな島で二カ月間すごしました。これがわたしにとってのはじめての日本とはちがう文化、つまり異文化の体験でした。写真もはじめて本格的にとりました。

 それから三年生のときには大学を休学してアルバイトでお金をため、アフガニスタンという国に入り、遊牧民とともに国境をこえようとしました。アフガニスタンにはそれから最近まで何回も行って写真をとり、写真展を開いたり、写真集を出したりしています。

 この国ではマスードというわたしと同じ年の人と友だちになりました。当時、アフガニスタンにはソ連の軍隊が入っていましたが、マスードはこのソ連軍と戦い、武器や兵士が少ないにもかかわらず、最後はソ連軍に勝ったすぐれた指導者です。

 これまで世界各地をたずね、写真をとりながら、「道具」をもつことの大切さを感じています。ぜひ、みなさんも自分の「道具」をみつけてほしいと思います。

 たとえば、外国に行ってそこの人びととなかよくなろうとしても、はじめは話しづらいものです。でも、「こんにちは。写真をとらせてください」とたのむことで話しやすくなります。写真をとるという目的をもつことで一歩前に進むことができ、勇気が生まれ、さまざまな生活や人との出会いが生まれるのです。

 「道具」というのはわたしの場合はカメラ、写真でしたが、人それぞれ絵でも音楽でもいいし、なんでもいいのです。人と出会うための「道具」、ひとそれぞれの得意なことを探しだすために実は学校などもあるのではないでしょうか。

 自分の「道具」がみつかれば、自分の生きる道も見えてきます。みんなが人とはちがう自分の「道具」をみつければ、ぶつかったり、争ったりすることは減るのではないでしょうか。

 わたしはこれまで戦争をしている地域や貧しい国々をたくさん歩いてきました。実際に行ってみると、そこに住んでいる人びとはきびしい状況のなかでもとてもたくましく、明るく生きているのです。わたしの方が教えられ元気をもらえるような気がします。これからも自分のリズムを大切に、世界各地をそしてふるさとの北海道なども写真にとっていきたいと思っています。

 聞き手・編集委員 嶋田健


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