わたしは一九五二年に釧路市で生まれました。「洋海」という名は父方の祖父がつけれくれました。せんそうに負けた日本は、海をこえて世界の人々となかよく交流しなければならない、という思いをこめた名前だそうです。
わたしはおとなになってから、せんそうをしている外国の国々や人びとをたずね、写真をとる仕事を始めました。心配した父は「おじいちゃんがこんな名前をつけたからだ」とこぼしたものです。
父と母は、釧路駅の北側で野さいや魚、雑貨などを売る小さな商店を営んでいました。このお店は住たくもかねていました。母方の祖父母もいっしょにくらしていて、とてもにぎやかな家庭でした。
じゅう業員などいませんから、家族みんながはたらきました。店のおくの部屋でちゃぶ台をかこんで食事をしていても、お客さんが来るとだれかが相手をしなければなりません。わたしも小さいころから手つだいをしていました。わたしは、いまでも食事をするのがとても速いのですが、実はこのころの生活で身につけたくせなんです。
父も母もはたらき者でした。父は毎日朝早く、商品の仕入れに出かけました。ときどきわたしもいっしょに出かけて手つだいました。父のバイクが品物でいっぱいになると、わたしがそれを自転車につんで先に店に帰るのです。生活の中心にお店がありましたね。
店がいそがしいので、母はあまりわたしのめんどうをみることができませんでした。近くの保育園に通ったのですが、おべん当の中身が友だちのものにくらべて地味だな、と思ったことをいまでもおぼえています。いそがしい母のかわりに祖母がよくめんどうをみてくれました。だから、わたしはおばあちゃん子だったのです。
商売中心の家庭に、なんとなく不満も感じていたのですが、それを補ってくれるものもありました。たとえば、近くにあった引き揚げ者住たくです。せんそう中に外国に住んでいた人たちが日本に帰ってきて住んでいたところです。
ここでは家の前で魚をやいたり、当時はめずらしかったテレビをみんながなかよくいっしょに見たりと、活気あるくらしが目に見える楽しい場所でした。なんでも教えてくれ、あちこちにつれていってくれるやさしいお兄さんたちもいました。 |