カーリング長野五輪代表

敦賀信人さん
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 (1)出合いから6年で五輪に

 (2)長距離走ずっと1着

 (3)寄せ集め軍団で優勝

 (4)失敗してもあきらめないで
◆敦賀さん略歴◆

 つるが・まこと 1977年網走管内常呂町栄浦生まれ。北見市にある北海学園北見大学の商学部にいた98年、長野五輪カーリング日本代表のスキップ(主将)として活躍。昨年、同大を卒業、家業の漁業をつぎ、ホタテ養殖、サケ・マス漁でがんばっている。弟の浩司さん(22)もカーリング選手。


(1)出合いから6年で五輪に
 みなさんはカーリングという競技を知っていますか。氷のリンクでストーンという丸い石をハウス(標的)に向けて滑らせ、ストーンがハウスの中心に近いチームが勝つというゲームです。

 スキーやスケートとちがって競技する人もまだ、多くありませんが、一九九八年の長野五輪(オリンピック)で初めて正式種目になりました。テレビでも放送され、氷の上をいそがしそうにほうき(ブルーム)で掃く、ちょっと変わったスポーツだとおぼえている人もいるかもしれません。

 私はその時、日本男子チームの主将でした。女子チームは、五輪の前の世界選手権で四位になるなど、結構強くてメダルの期待がかかっていました。でも男子は、そうでもなかった。

 本番ではスウェーデン、ドイツなどの強い国に次々に勝って、あと一勝でベスト4。アメリカが相手でした。ゲームの最終回で最後に投げた私の石は、うまく標的近くに止まって、「勝った」と思いましたが、アメリカの最終ショットにはじかれてしまいました。標的までの距離の差は、人さし指の幅。二センチ足らずでした。成績は三勝四敗の五位で、残念ながら、メダルには届きませんでした。

 銀メダルをとったカナダとの試合で、あと一歩で勝てた接戦をし、自信がふくらみました。そのかわり、ほかのチームのマークがきびしくなったし、国際大会の経験が少なく、気持ちの面で差がでたのかもしれません。

 アメリカ戦で負けたとき、くやしかった。泣きました。でも、故郷の常呂町からはるばる応援にきてくれた人や観客から「いい試合だった!」と声をかけられたり、あく手を求められたりして、「自分たちはやったんだ」と満足できました。

 本当をいえばメダルはほしかったんですが、競技関係者が「全勝できたかもしれないぐらい強かった」といってくれたほど、力がついていたんでしょう。

 はじめてカーリングと出合ったのは、中学二年の時でした。姉妹町の高知県佐川町から来た人が、私の家にホームステイしていて、いっしょに常呂町にあるリンクに行って、競技を見たのがきっかけでした。

 それからわずか六年。世界の強い国と伯仲した試合ができるなんて、思ってもみませんでした。それどころか、五輪に出場できるなんて夢にも思っていなかったんです。


(2)長距離走ずっと1着
 私が生まれた常呂町栄浦はサロマ湖の東はしにある漁業のマチです。オホーツク海がすぐそばで、夏の夕方、まっすぐ湖の方に落ちていく太陽を、「きれいだなあ」と感じながら育ちました。

 小学校は全校で八十人ほどの錦水小学校。そのころは書道や絵も好きでした。でも、いちばん得意だったのは体育でした。

 担任の先生が「なんでも、人よりうまくなれ、上になれ」と、いつも励ましてくれたので、みんな、競争する気持ちが強くなったのでしょう。陸上競技の学校対抗戦で町内一になったこともあります。

 私は、体は大きくはなかったのですが、走り幅とび、ボール投げ、八○メートル競走が得意で、四、五年の時は、八○メートル走の町内チャンピオンになりました。

 ほんとうに、スポーツってすごいなぁと思ったのは、そのころ常呂などで夏の合宿をしていたエスビー食品陸上部の長距離ランナーを見てからでした。ともかく速い。テレビで見ていてもスピードって、そんなに実感できないでしょう。道で見ていても、顔がわからないんです。私が力いっぱい走っても追いつかない速さで何キロも走ってしまう。

 特に、ソウルオリンピックを目指していたマラソンの瀬古利彦さん。名前は知っていましたが、世界一を決める大会でメダルをねらっているなんて、かっこいい。そう思って、好きだった長距離走が、もっと好きになりました。校内のマラソン大会では、一年から六年までずっと一着だったのが、自慢です。

 少年野球もやっていて、プロ野球選手になりたかった。でもプロ野球やオリンピックに出るのは、きっと子どものころから体が大きくて、才能があって、特別な人という感じを持ちますよね。私が見た瀬古さんもきっと、そうだったと思います。

 私はふつうの運動好きの小学生でした。人よりは得意でしたが、オリンピックに出ることなんか、考えたこともありませんでした。それから十年ほどで、カーリングに出合い、出場できました。運動が好きなふつうの子どもでも出るチャンスはある、と思ってくれればうれしいんです。

 えっ、いたずら? あんまりしなかったような…。

 勉強? うーん、まあまあ。


(3)寄せ集め軍団で優勝
 一回目でお話ししたように、カーリングと初めて出合ったのは、中学二年の時でした。ルールもわからず、初めは好きになれそうもないな、と思いました。簡単にできそうに見えましたが、リンクの上にいた友だちに誘われて氷の上に立とうとしても、できなかった。どんなスポーツでも、とにかく最初から少しはできたのに。

 氷の上で三十分ほどもたもたしてリンクから出ると、カーリング協会の会長だった小栗祐治さんが「本気でやってみないか」と、声をかけてくれました。ジュニアチームを強化していたんですね。これがきっかけでカーリングを始めたんです。

 中学三年の時、ジュニアの全日本大会に出ました。同級生のチームは上位にいくだろうと期待を集めていましたが、その時、私たちのチームは、よせ集め軍団。大きな大会にも出たことがありませんでした。ところが、すいすいと勝って、優勝してしまいました。

 全国一になったうれしさはわすれません。「個人種目より、チームプレーが合っているのかな」。カーリングのおもしろさがわかったのはこの時でした。

 でも、私がいたチームの実力は、町内で二、三番。ジュニアクラス(二十一歳まで)では大きな大会でも通用しましたが、一般の部とは、経験の差がありました。

 高校に入ってから力が付いたのでしょう、道内のリーグ戦でも上位に入るようになりました。高二の時に出た全道大会は、札幌の真駒内アイスアリーナが会場でした。常呂町の専用リンクとちがって、このリンクはスケートやホッケーでも使うので、氷の上がまっ平らでなく、コンディションが悪かった。ストーンを思うように投げられず、負けてしまいました。

 私たちが「リンクのせいだ」と言ったら、小栗さんに「それはいいわけだ。君たちはおぼっちゃますぎる」としかりつけられました。どのチームも条件は同じだし、技術もついている。リンクのせいにするなんて、あまえていたんですね。小栗さんは、やさしい人ですが、その時はこわかった。

 高校三年の時、私のチームにコーチが付いて「オリンピックをめざしてみないか」とはげましてくれました。力もついていたし、よし、やってみよう、という気持ちがわいてきたんです。


(4)失敗してもあきらめないで
 大学生だった一九九六年二月、私がいたチーム「アイスマン」が全日本大会で優勝し、長野五輪の代表五人の一人に選ばれました。本番の二年前でした。

 カーリングはチームワークが大切。自分のチームを出てしまい、最初の一年は成績も悪くて、補欠だったこともありました。つらい思いをしましたが、その間にほかの四人を目標にがんばり、五輪一カ月前にスキップ(主将)を命じられました。開会式の入場行進に出て、ワーッという会場の応援がすごかった。初めて「五輪に出たんだなぁ」と感じましたね。

 五輪の結果は、お話ししたように五位。くやしさは残ったけれど、満足でした。

 カーリングのおもしろさをみんなに知ってほしいという、もう一つの目標も達成できました。

 そのころ、日本でカーリングをする人はたった三千人でした。テレビ中継もあり、見た人は「へんなスポーツだなぁ」という私が最初に見たときと同じ気持ちだったと思います。でも、いまは三万人に増えたんです。

 昨年の春、大学を卒業して漁業をつぎ、いまは毎朝早く起きて夕方まで、ホタテの養殖や漁に出ています。五輪に出たあと、みなさんの前でお話しする講演の機会も増えました。九月にも岩手県の小学校を三校回ってきました。

 そんな時は、子どもの時は、何でもいいから、好きなことに一生けんめいになってください、と話します。スポーツでも習い事でもきっとうまくなり、いろんな大会に出て、自分のうでを試せるでしょう。ただ失敗しても、うまくいかなくても、あきらめないこと。すぐ成功するなら、喜びはそれだけのものです。失敗をくり返せば、その数だけ喜びも大きくなるんです。

 もう一つは、自分の住んでいるまちや学校に感謝の気持ちをわすれないこと。私も常呂で育って、いい先生や指導者に会え、五輪に出られました。みんなのまわりにも、すごい先生たちがいるはずです。私がお話しした子供たちの中から五輪選手が出てくれれば、うれしいですね。

 私もカーリングをやめたのではありません。来年のソルトレーク五輪の出場は逃しましたが、その次をめざします。漁業をやりながら出た人はいないそうです。見ていてください、もう一度五輪のリンクに立ちますから。

 聞き手・編集委員 斉藤紳一


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