宝塚歌劇団星組トップスター

香寿たつきさん
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 (1)受験よりバレエに熱中

 (2)高校の放送局で活やく

 (3)家族の支えで合格できた

 (4)夢あきらめずに努力を
◆香寿さん略歴◆

 こうじゅ・たつき 札幌市生まれ。札幌啓北商業高卒業後、宝塚音楽学校(兵庫県宝塚市)へ。1986年「レビュー交響楽」で初舞台。歌、ダンス、芝居の三拍子そろった実力派の男役スターとして活躍。2001年11月に道産子として初めてトップスター(星組)に。宝塚市在住。愛称はタータン。


(1)受験よりバレエに熱中
 みなさんは宝塚歌劇を見たことがありますか。実際に見たことがなくても、テレビで見た人がいるかもしれませんね。私はその宝塚の星組トップスターになりました。お披露目公演というのが年末まで東京宝塚劇場で上演されました。男役トップは大きな羽のかざりを背負い、スポットライトを浴びて大階段を最後に下りてくるんです。とてもはなやかで夢のある舞台でしたよ。

 生まれ、育ったのは札幌の平岸というところです。小学校は平岸小。一年のときに家族旅行で大阪万博を見に行き、その帰りに初めて宝塚歌劇を見ました。といっても、そのときのことはほとんど覚えていないんです。きっとタカラジェンヌになろうなんて夢にも思っていなかったからでしょう。二年生になってバレエを始めました。テレビドラマの「赤い靴」を見て、「私もバレエを習いたい」と両親にたのんだのです。それから高校卒業まで中央区のバレエ研究所にバスで通いました。

 三人姉妹の真ん中で、三人の中では一番おとなしくて、手のかからない子どもだったそうです。でも、しんのつよいところはあったんでしょうね。平岸中時代、高校受験を前にして二つもバレエ発表会があったんです。「二つも無理だから一つにしなさい」と親から言われたけど絶対やめたくありません。「出してくれないならごはんを食べない」とがんばって、結局、二つともやりとげました。

 宝塚音楽学校に入ったのは札幌啓北商業高を卒業してからでしたが、実は中学三年の時に「バレエの芸を生かせるから受けてみようか」と思ったことがありました。同じバレエ研究所の、東京からひっこしてきた子が熱心な宝塚ファン。影響を受けたんです。でも「やっぱり自分はバレエのほうが好き」と考え直しました。ところがどんどん背がのびて(いまは一六八センチ)、結局背が高すぎてクラシックバレエにはむかない体形になってしまいました。

 そのころ所属していたバレエ研究所が歌って踊ってというミュージカル仕立ての創作舞踊を発表したことがありました。その舞台に出た私を見た父が「バレエよりもこっちのほうが向いているかもしれない」と思ったそうです。宝塚音楽学校に入学し、タカラジェンヌへの道に一歩ふみ出したのはそれから三年後のことでした。


 (2)高校の放送局で活やく
 高校は両親とも相談して札幌啓北商業高を選びました。簿記などの資格が取れるからです。それでもバレエは相変わらず続けていました。それに加えてタップダンスや日舞も習いました。

 高校では放送局に入っていました。これもおもしろくて一生懸命やりました。そのかいあって全道大会で二年連続でアナウンサー部門で最優秀賞をとりました。小学校のときも朗読で金賞をとったことがあって、けっこうこういうのが得意だったのかもしれません。

 最優秀賞をとったときも特別に両親には知らせませんでした。それで「何もいわないでこっそりやるんだから」とよくいわれました。

 高校三年の文化祭でクラス対抗のミュージカルをやったんですが、振付、構成、演出、もちろん出演まで全部やりました。宝塚歌劇やミュージカルの「コーラスライン」のふん囲気を取り入れたりして、けっこうおもしろいものになりました。クラス対抗コンテストでは見事、最優秀賞。でも、こなくていいといっていたのに見にきた両親からは、「どうして教えてくれなかったの」としかられました。自分のむすめが中心になってやっているとは夢にも思っていなかったのです。

 小学三年のときに学校で開かれた新入生かんげい会でマリンバの合奏に出ました。父(槙邦雄さん)は当時、札幌放送管弦楽団に所属するビブラホンの奏者で、お弟子さんもたくさんいたんですけど、直接音楽を教えてもらったことはありません。マリンバは見よう見まねで覚えたんですけど、このことも話していませんでしたから、妹の入学式で学校にきた両親は「見たことのある洋服の子が舞台で演奏しているなあ」と最初は不思議に思ったそうです。

 高校に入る前に、通っていたバレエ研究所のクリスマスパーティーで宝塚歌劇のまねごとをしたこともありました。ネクタイをしめてズボンをはき、男役に挑戦です。そのころ、日曜の朝六時からテレビで宝塚歌劇の番組をやっていたんです。いつも早起きしてそれを見ていたので、すっかりタカラジェンヌになりきっていました。すごく楽しかったですよ。そんなころ、自分の中で宝塚へのあこがれがだんだん大きくなっていったのかもしれません。


(3)家族の支えで合格できた
 父がビブラホン奏者だったのでいつも家にはマリンバやカンツォーネ、シャンソンを習いにくるお弟子さんたちがいました。そのころ父は直接音楽を教えてくれたことはなかったんですが、例えば長い曲でも一度きいただけで節を覚えてしまうと感心されたことがあります。レッスンを見ききしているうちに音感が備わったのでしょうね。

 高校の卒業をひかえて進路についての三者こん談があって、そのとき「宝塚を受けたい」といいました。先生からは「そんな夢は捨てなさい」といわれたんですけど、宝塚音楽学校の受験は年れい的に最後のチャンスなので「だめもとで」と思い切って受けることにしました。ただし、就職試験も受けるというのが条件です。

 東京の厚生年金会館でバレエの全国発表会があり、その一週間後が一次試験でした。いろいろ調べてみると宝塚音楽学校に入るために専門の予備校まであって、ほかの受験生はみんなすごい準備をしているようでした。北海道からぽっといって入るなんてことは考えられません。「困ったなあ。どうしよう」と正直、思いました。

 このとき父が課題曲のレッスンをしてくれました。その様子を音がよく取れるようにとわざわざNHK札幌放送局のスタジオでテープにとってくれたんです。そのころ、父はNHKの音楽番組で演奏したり、「のど自慢」北海道大会で“かねたたき”をしていたんです。東京へ行ってからもこのテープで練習しました。

 父が直接、音楽を教えてくれたのはこれが最初で最後でした。その効果があったのか一次試験にパス。宝塚での二次試験にも合格して、あこがれの音楽学校へ入学することができました。父は卒業して実際に舞台に立つようになってからもよく公演は見にきてくれましたが、「あんまり言って混乱すると困るから」と歌についてはほとんど批評らしきことはしません。

 でも、いきなり歌をもらってちょっと苦労したことがあって、そのときはアドバイスをもらいました。「おまえはがんばりやで、しんの強いところがあるから」と両親にいわれますが、家族の支えがなかったらここまでやってこれなかったなあと思います。


(4)夢あきらめずに努力を
 東京宝塚劇場のトップ披露公演では平安王朝絵巻の「花の業平」で在原業平という平安初期の歌人を演じました。みんなは知ってるかなあ。「トップスターになって大変でしょう」とよくいわれるけど、自分自身は何も変わっていない、まわりが変わったという感じ。トップなんだなあと思うのは、ステージの大階段を最後に降りるときと、あいさつをするときくらい。本当に夢中で舞台を務めました。

 これまで私の話を読んでいて、タカラジェンヌになりたいなあと思った人がいるかもしれませんね。残念ながら男の子はなれないけど(笑い)。でも、自分には歌って踊れて芝居もなんて器用なことはできないとあきらめてしまっている人もいると思います。

 わたしも外見は落ち着いているように見えるらしいけど、実は相当なオッチョコチョイであわてもの、それに不器用なんですよ。役や歌をいただいてもすぐにできなくて、振りだって覚えが悪いので人が三回のところを五回もやらないとダメなんです。大事なのは大きな夢に向かって一つひとつステップをふんで努力していくことです。

 私も最初からトップスターになろうと思っていたわけではありません。というよりも突然トップにふさわしい人間になれるわけはありません。トップに到達するまでにはいくつもの段階があって、ある目標をクリアしたら次の目標というように努力を積み重ねて初めてトップとして認められるわけです。

 例えばみんなの場合だと、毎週の小学生新聞を読んで、わからない漢字を調べるようにしたらどうかなあ。次の目標は週一回の漢字テストで満点をとること。それができたらこんどは期末試験のような大きなテストで漢字の問題は満点を取るようにがんばるんです。私は日々そうやってきたし、これからもそういう気持ちでい続けたいと思っています。

 それといつも思うのは北海道で生まれ育ってよかったなあということ。広い大地というめぐまれた自然かん境の中で、ものの考え方もおおらかになれたからです。受験、受験と追い立てられることもなかったし、だれと比べてどうだとかそんなこともいわれなかった。みんなにも北海道のよさをもっと知ってほしいと思います。

 聞き手・編集委員 高橋純二


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