将棋女流王位

清水市代さん
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 (1)将棋の楽しさ 父に学ぶ

 (2)「先生」にめぐまれて

 (3)ファンレターがはげみ

 (4)ライバルは自分自身
◆清水さん略歴◆

 しみず・いちよ 1969年、東京都東村山市生まれ。83年高柳敏夫名誉九段に入門。87年に女流名人戦で初めてのタイトルをとる。96年に女流四冠を全部とり、一昨年には初の女流六段に。昨年の女流王位戦(北海道新聞主催)で、稚内出身の中井広恵女流五段に勝ち、4連覇(通算8期)を達成。


(1)将棋の楽しさ 父に学ぶ
 将棋でも碁でもプロの人は小学校や幼稚園に入る前にはルールを覚えていた、という話を聞いたことがあるでしょう。

 私が本気で将棋を始めたのは、中学生になってからです。いま、私のまわりにいるプロの仲間の中でもずいぶん遅いほうですね。ただ、アマチュアの強豪だったお父さんが将棋教室を開いていて、ルールやこまの動かし方は、小学三年生ごろには自然に覚えてしまいました。

 でも、私は家の中にじっとしていられない、将棋盤の前で正座するなんて、いちばんの苦手。キャッチボールが大好きなほどおてんばだったんです。

 そのころ、本気で将棋をやろうとは思ったことがありませんでした。だからでしょうか、将棋を指している写真はぜんぜんありません。

 お父さんは、ふだんは無口でしたが、私が一人っ子だったので、兄や弟のように、いっしょに遊んでくれました。こま落ち将棋でわざと負けては、いつもほめてくれました。詰め将棋もよく教えてくれました。将棋は本当に楽しいんだ、ということを教えようとしてくれたのでしょう。

 ただ、すわっている姿勢が悪かったりするとぶたれたこともあります。そういうことにはきびしかった。将棋をしながら礼儀作法を身につけ、社会に役だつ考え方を学んでほしかったのだと思います。

 本気で将棋をやろうと思ったのは、中学生になって、自分にしかできないことをしてみようと思ったから。将棋は勝負の世界です。実力がすべてでしょう。自分の力をためせるだろうと思ったのです。

 それまでは子どもの遊びだったかもしれません。将棋の本も読めるようになって、父の前で「教えてください」といったら、それからは、一度も勝たせてくれませんでした。子どもが一生懸命やろうとしていることを、てつだってやろうという気持ちだったにちがいありません。

 でも、私を棋士にしようという気はなく、そのころは私もプロの世界がどんなものかほとんど知りませんでした。

 プロに入ろうと決意したのは、ある大先輩の女流の先生との出会いがあったからです。優雅で、美しくて、やさしい。その先生の名前は、蛸島彰子女流五段でした。


(2)「先生」にめぐまれて
 女流アマチュア名人戦の全国大会に出た中学二年の時、やさしく声をかけてくださったのが、蛸島彰子先生(女流五段)です。「おじょうちゃん、何さい?」。初出場でコチコチになっていた私は、そのひとことできん張がすーとなくなったのを覚えています。強いアマチュアがたくさん出ていた大会。一回戦で負けてしまいましたが、こんなすばらしい先生がいるなら、私もプロの道に、と思い始めたのです。

 翌年の同じ大会で優勝したのをきっかけに、数多くの一流棋士を育てられた高柳敏夫名誉九段のところに入門しました。実は、お父さんは大反対だったんです。厳しい勝負の世界についていけるか、心配だったのかもしれません。最後は「いちばんになる自信があるなら」という条件で許してくれましたが…。

 女流棋士を育てる「女流育成会」に入ってプロをめざすと、世界が変わって見えました。それまで、お父さんの教室で指している時は、勝ち負けに関係なく、まわりの人はやさしく教えてくれたり、なぐさめてくれたりしました。

 それがプロになると、みんなライバル。みなさんも将棋の新聞記事を読んだことがあるでしょう。負けると名前だけしか出ない。写真も背中が写るだけ。一生けん命がんばっても、負けたらだめなんですよ。こんなはっきりした世界はないんじゃないかな。でも、逆にやる気が出たんです。

 高柳先生に入門した時、一番になるまで「お化粧と恋愛はだめ」と言われました。それを破ると弟子をやめさせられてしまうんです。学校のあと高柳先生の家に行き、夜遅く帰ってくる毎日。でも、同じ年の人がもう女流で活やくしていたのですから、人より遅く始めた分を取りもどすには、当然と思いました。

 高柳先生は、無口で厳しい先生でしたが、孫のような私をかわいがり、負けがこんでいると、「何か買って帰りなさい」とお小づかいをくれたり、とってもすばらしい先生にめぐり会えました。

 お父さん、蛸島先生、高柳先生。私は「先生」にめぐまれました。先生方が教えてくれたことが、将棋と自分の生活をささえていると思います。そして十九歳の時、初めてプロの「女流名人」になりました。お父さんや高柳先生との約束を一つ果たせたんです。


(3)ファンレターがはげみ
 私が生まれたのは、東京の東村山市です。タレントの志村けんさんと同じですね。

 今はすっかり都会ですが、小学生のころは、家のまわりは川や丘があって学校から帰ると、自転車に飛び乗って遊びに行ってしまう女の子でした。前にも言いましたが、お父さん相手のキャッチボールが好きで、一人の時は家のかべに向かってボールを投げて遊んでいたんです。

 お父さんは、そのころ将棋教室を開いていました。ふつう将棋だと、おじさんたちが将棋盤をにらんでいる静かな道場だと思うでしょう。でも、ちがったんです。子どもの方が多かったんです。

 強くなればいい、というだけの子はいませんでした。将棋をするからには自分も、相手も、教室にきているみんなが楽しくなければだめ、というのがお父さんの考えでした。だから、上手な子はへたな子に教えたり、将棋をしていない時はさわいだり。本当に楽しかった。

 いま、教室は初心者の子どもや女性がほとんどで、楽しいムードはかわりません。勝てばうれしい、負ければくやしい、という気持ちはあるでしょう。強くなりたいとも思うでしょう。でも、対戦する友だちの気持ちを考えるのが大切。だって、人は一人では生きられない。将棋は自分と相手の二人。みんなが暮らしている社会のいちばん基本の関係なのだから。

 月に一回ほど、私も教室に行きます。「お姉さん、おひさしぶり」「このあいだテレビに出ていたけど、なんで?」とか、タイトルを持っているプロだとは思っていないようで、かえってホッとするんですよ。

 最近びっくりしたのは、パソコンゲームでしか将棋をしたことがない子どもがいたことです。駒を実際に見るのは初めて。駒の箱も自分であけられない。いまはみんなと楽しそうに将棋をしていますが、最初はどう教えればいいのかこまってしまいました。

 プロになっていちばんよかったと思うことは、私が将棋を指しているのを見た人から、「勇気が出た」「がんばります」と聞いた時。とくに小学生のみなさんから「あこがれです」とか、ファンレターをもらうと、ずっとみんなのあこがれでいよう、もっとがんばらなくてはと、私も勇気が出てきます。


(4)ライバルは自分自身
 小学生の時、勉強は得意な科目と苦手な科目がはっきりしていました。得意だったのは算数と理科。おてんばだったから体育もリレー選手になったこともあるぐらいで、大好きな授業でした。国語は全然だめ。音楽は楽器演奏はへたでしたが、歌うのは好きでした。もうすぐ歌のCDも出すんですよ。

 高校時代は日本史が大好きで、平安時代や古代の歴史の本を熱心に読んだこともあります。もし、将棋の世界に入っていなかったら、算数か歴史の先生になっていたかもしれませんね。

 将棋をやっていてよく聞かれるのが、ライバルはだれですか、ということです。でも、ライバルを意識したことはないんです。人がこれだけできるのに私はできないとか自分はこんなにできるぞとか、考えなくてすむから、楽ですよ。

 しいていうなら、自分自身かな。私の中に「強い自分」と「弱い自分」がいて、負けたときは自分自身の責任。ぎゃくに勝ったときは自分だけでなく、まわりの人や応援してくれたファンのおかげなんだと考えます。

 今回がお話の最後ですから、みなさんに将棋が強くなる方法を教えましょう。むずかしくありません。まず、好きになること。やる気があればだれでも強くなれます。プロになるなら別ですが、向き、不向きというのはないんですよ。

 それと、詰め将棋をたくさん解くことです。うまく指していて、最後に逆転されたらおもしろくないでしょう。いろいろな形を頭の中に入れてしまえばいいんです。それも三手詰めの簡単なものがいい。一手詰めでもかまいません。わからなければすぐ答えを見てください。つぎに見てすらすら解けるようになれば、強くなった証拠です。

 みなさんは、プロが自分のモットーを書いた扇子を持っているのを見たことがあるでしょう。私は「一歩」と書きます。「いっぽ」と読んでも「いっぷ」と読んでもかまいません。歩は将棋でいちばん小さな駒ですが、数は多くていちばん働くんです。歩を大事にして、あせらず一歩ずつ前に進みたい、という気持ちを込めています。みなさんも将棋をやってみて、楽しさを感じてください。私もがんばりますので、応援してくださいね。

 聞き手・編集委員 斉藤紳一


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