北海道病院ボランティアネットワーク会長

向井和恵さん
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 (1)人の役に立つ心 父に学ぶ

 (2)貧しい人を助けた両親

 (3)両足動かぬ友だち手助け

 (4)人の役に立つ喜び感じて
◆向井さん略歴◆

 むかい・かずえ 1943年生まれ。上智大学文学部(英文学)卒業。64年から3年間、ヨーロッパ留学。帰国後、札幌国際プラザ、PMF(パシフィック・ミュージック・フェスティバル)などで通訳ボランティアを行う。95年から市立札幌病院ボランティア、昨年から現職。


(1)人の役に立つ心 父に学ぶ
 みなさんはボランティアという言葉を知っていますか? わかりやすく言うと「みんなの役に立つことを、お金のためでなく、自分から進んですること」という意味です。私はいま、市立札幌病院で、患者さんや家族の人たちを相手に、受け付けの手助け、病院の中の案内、花だんづくりなどをしています。いっしょに活動している百二十人の中には、みんなと同じ小学生もたくさんいるんですよ。

 私は北海道に来た外国人の通訳や、音楽祭のお手伝いなど二十年以上、ボランティアを続けてきました。子供のころを思い出すとお父さん、お母さんの影響をずいぶん受けているなあと思うんです。

 生まれは留萌市で、六人姉妹のいちばん下でした。おぼえているのは、まだ第二次大戦が終わったばかりの五十年以上前のことからです。

 そのころ留萌はまだニシン漁が盛んで、人口も増えている時でした。父は商店や土地の取引をしながら、町内会長や消防団の団長をしていました。

 消防署に救急車を寄付したこともあったし、火事の知らせが入ると、店のお客さんと商売の話をしている最中でも飛び出していき、だれよりも早く消防車の助手席に乗って出動する。消防の服には一番、二番と番号がついているんですが、一番を着ないと気がすまない。「みんなの役に立ちたい」という気持ちが強い人だったのでしょう。

 いろいろ商売をしていたので、大金持ちではありませんでしたが、家族はふつう以上のくらしをしていました。ただ、父はつぎはぎのある服を着ていて、荷物をはこぶ時は自動車ではなく、リヤカーを使っていました。学校の帰りに友だちがリヤカーをひいている父を見つけ、「和恵ちゃんのお父さんだ!」とひやかすのを聞いて、こまってしまった記おくがあります。でも、私はいやではなかった。きっと「ふつうの人でいたい」と思っていたにちがいないと考えているんです。

 父のやっていたことは、いまのボランティアとはちがっているでしょう。でも、「ふつうでいたい、だれかの役に立ちたい」という気持ちは、知らず知らずのうちに私にも伝わっていたのでしょう。


(2)貧しい人を助けた両親
 小学校に入る前のことです。そのころはまだ戦争が終わったばかりの時期で、留萌でも貧しい人が少なくありませんでした。そんな中に、家がなくてぼろぼろの服を着た男の人がいました。風呂にも入れず、見るからにきたない。まちの家を順番に回って食べ物をもらいながらくらしていたようです。

 私の家にも何カ月かに一回、来ました。幼かった私はじっと見ていただけですが、両親はその人をお風呂に入れ、食事をつくり、ふとんで寝てもらうようにしました。いつもは最初に風呂に入る父も、その人を先に入れ、母もふだんよりいい料理を出していました。

 両親は、こまっている人のために、自分ができることを、できる範囲でする、という人でした。その時、地元の新聞に母が写真入りでその人に何かしてあげている記事がのりました。私もそのわきに写っていたのをおぼえています。小さいときの記おくですから、その人と父母のふるまいがよほど印象に残ったのでしょう。

 小学校は、まちでいちばん大きい留萌小学校に入りました。いちばん上のお姉さんは十七歳も年上で、家の商売の手伝いをしていました。私の楽しみは、お正月と七月の夏まつりの時、新しい服をもらえること。お姉さんたちが、小さい末っ子のために、ぬってくれたんです。お姉さんたちの愛をもらっていたんだなぁ、と思っているんです。

 そのころ日本舞踊を習っていて、学芸会で踊ったこともあるんですが、かけっこは速かった。やせっぽちな女の子なのに、「人間機関車」と言われ、はずかしい思いをしましたよ。五十メートル競走では校内でもいちばんでした。留萌管内の学校対抗の陸上競技会では、リレーの選手で優勝したこともあるんです。もっとも、高校二年の時、おそくなっちゃった。太ってしまったのよ(笑)。

 小学六年生になるとき、錦町から栄町に引っ越しし、学校も留萌小から東光小に転校しました。私が自分でボランティアを体験したのは、この時でした。

 近所にポリオ(小児まひ)で両足が動かない女の子がいたんです。六年の新学期から、卒業までの一年間、朝の通学をお手伝いすることになりました。


(3)両足動かぬ友だち手助け
 ポリオ(小児まひ)で両足が動かないその友だちは、同じ留萌の東光小学校の六年生。クラスはちがいましたが、私の家の二軒となりにあった家の女の子でした。足はだらりとしていて、いつもは小さな松葉づえをついて歩いていたんです。でも、とっても頭が良くて、明るい人でした。

 どうして登校のお手伝いを始めたのか、おぼえていません。「かわいそう」と思ったのか、「なにか役にたてれば」という気持ちだったのかもしれません。だれかに言われたのではありませんでした。

 私ひとりなら学校まで歩いて十五分くらいだったかなぁ。でも、彼女は松葉づえで三十分以上かけて登校していました。私は毎朝七時半ごろ、彼女の家に行って「行こうよ」と声をかけ、彼女のかばんを私が持って二人ならんでゆっくり歩いていきました。

 学校までは、わりと平らな道で途中、二人で前の日に学校であったできごとを話しあいました。かばんは学用品がつまっていて、小さかった私には二つ持つのは、けっこうつらかったけど、その重さがいまでも記おくに残っているんです。下校の時は、彼女の親がむかえにきていました。

 雨の日は二人でかっぱを着ていましたが、ほんとうにたいへんだったのは冬。登校の道も雪がたくさん積もっていて、その上を彼女が乗った、小さな木そりを押していったんです。私のかばんを彼女のひざの上に置き、私がそりを押すと、すいすいとすべっていく。でも、本当に寒い日や、雪がふった日は、やっぱりつらかった。ころんじゃいけない、と思って緊張したし、学校につくとあせをかいていましたよ。

 六年の新学期から卒業式までつづけました。彼女は卒業してからべつの学校に入ってしまい、最後の登校の日に「がんばろうね」っていったのがお別れのことばでした。

 もう四十年以上たちました。残念ながら、彼女がいま、どうしているのか知らないんです。でも、登校の時はいつも笑いっぱなしだったほど明るい人だから、いまも元気でいるにちがいないでしょう。

 私がボランティアに一生けん命になるのは、おとなになってからですが、この一年の思い出がきっかけになったと思っているんです。


(4)人の役に立つ喜び感じて
 みんなの役に立つことを、お金のためでなく、自分から進んですること。みんながよく聞くボランティアという言葉の意味でしたね。でも、むずかしくはないんです。

 たとえば学芸会で舞台のかざりを作るとしましょう。だれかが「クレヨンと紙を買ってきます」と言う。別のだれかが「布だったら、家にいっぱいあるよ」「ぼくは先生に聞いて、かざりを作る場所を見つけてくる」と言うでしょう。一人ではたいへんだったかざり作りが、みんなが力を合わせてできあがる。そう、自分でできる仕事と役割をみつけ、友だちや先生、家族にも声をかけていっしょにすることが、はじまりなんですよ。

 私は子どものころ、両親がこまっている人のために何かしようという姿を見て育ちました。日本に来た外国人の通訳や、病院に来る人のお手伝いをはじめたのはずっとあとのことですが、「私も人の役に立てるはず」という思いがあったのでしょう。

 いま、私がしている市立札幌病院のお手伝いには、みなさんと同じ小、中学生が十人くらいいて、休みの日をつかって、病院のまわりにある花だんの手入れ、患者さんが読む本の整理、おり紙作りなどを手伝っています。

 最初、授業や夏休みの見学で来たお友だちはびっくりします。学校や家とちがって、病気の人やお年より、体の不自由な人がたくさんいるでしょう。そういう人たちと会って、話をしているうちに、来た人たちの何人かは変わっていくんですよ。ひとことで言うと「いのちの大切さをまなんでいる」。

 花だんの植物の葉を一枚ずつふいてもらったことがありました。ほこりや車の出すガスで汚れていた草花がいきいきしてくる。みんなの顔もパーっと明るくなるんです。お手伝いのあとの感想文でも「花が元気になるのを見てうれしかった。私にできることを考えてみました」とか、活動を通して何かを感じてくれているんですね。

 特別なことでなくていい、人に言われてするのではない。でも、それぞれできることがあるはずです。思いついたら、まず、やってみましょう。「みんなよろんでくれた。やってよかった」と思ってほしいんです。

 聞き手・編集委員 斉藤紳一


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