フェリー船長

岩下茂さん
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 (1)外国行きにあこがれて

 (2)きつくてもつづけた剣道

 (3)海員学校の訓練で船よい

 (4)海で自然のこわさ知る
◆岩下さん略歴◆

 いわした・しげる 1950年仙台市生まれ。66年に国立宮古海員学校を卒業、大阪商船三井船舶入社。76年に旧国鉄青函局に入り、青函連らく船の航海士に。86年東日本フェリー入社。現在、「ばるな」「へすていあ」の船長。函館市在住。


(1)外国行きにあこがれて
 みんなはフェリーに乗ったことがあるかな。フェリーといっても総トン数は約一万四千、全長は約二百メートルもあるから、実際に見たらきっとその大きさにおどろくと思うよ。

 私はいま室蘭市と茨城県の大洗町を結ぶフェリー航路の二せきの船長をしています。船の名前は「ばるな」と「へすていあ」。それぞれインド神話とギリシャ神話からとった神の名です。船にはトラック百八十台、乗用車百台、それに六百人から七百人を乗せることができるんだよ。

 一度船に乗ると三週間続けて勤務します。そのあと陸に上がって十日間ぐらい休み、そしてまた船にもどるという生活です。以前、外国をまわる船に乗っていたときは三カ月は日本にもどれなかったから、いまはまだいいほうだね。考えてみると、これまでの人生は海の上の生活のほうが陸にいるときよりずっと長いんだ。ふしぎな気がするよ。

 実は子どものころは船乗りになろうなんてぜんぜん考えていなかった。生まれ育ったのは東北地方の中心都市・仙台。父親はくつ屋さんでした。まだ開発が始まる前で自宅のまわりは山や田んぼだらけ。川ではよく泳いだけど、海水浴なんて行ったことがない。だから海とか船とかに対する興味もわかなかったんだろうなあ。

 それが中学三年のとき、自分の人生を決めるあるできごとがありました。そのころ仙台からの修学旅行の行き先は東京、横浜です。横浜港を見学したとき、港に氷川丸というヨーロッパやアメリカを往復していた有名な客船がつながれていました。「ああ、この乗組員になったら外国にただで行けるんだなあ」と、そんなばくぜんとした考えが頭にうかんできました。

 卒業が近づき、進路を決めるときになって先生に「船の仕事を見つけて外国へ行ってみたい」と話したら、「こんなところからぼ集が来ているぞ」と、岩手県宮古市にある海員学校をしょうかいしてくれました。そこは生徒がいっしょに生活をする全りょう制でした。

 中学を卒業して一年間、船よいとホームシックになやまされながらもがんばって勉強しました。そして、そこでの生活が船乗り人生の出発点になりました。


(2)きつくてもつづけた剣道
 前回は船乗りにあこがれて海員学校へ入ったことを話しましたが、今回は小、中学生のころの話をしましょう。

 小学校は仙台の荒巻小というところでした。当時はまだ先生も生徒もゆったりしていて、課外授業といって学校近くの田んぼにイナゴをとりにいったり、山に入ってキノコをさがしたり、クリをひろったりしていました。そういうときは給食を持っていって外で食べるんだけど、これが楽しくてね。そのころ、はやっていたのがターザンごっこ。木に登ってターザンのように声を出して遊んでいました。

 いたずらもしたよ。学校の近くに大きな墓地があって、おなかがすくとお供えのくだものをもらったりしてね。冬はお墓の花をさしてある竹ずつを半分に割って竹スキーをつくって、それで遊んでいたよ。宮城県いっせいの学力テストをさぼって友だちと神社で遊んでいたら見つかってしまい、ばつとしてろう下に座らされたこともあったなあ。

 中学では剣道部に入りました。そのころ「赤胴鈴之助」とか「隠密剣士」とかテレビ時代劇が大人気で、そのえいきょうを受けたのです。中一の新人戦では三位になって、そのあともよく入賞していました。そのころみんながつけてくれたあだ名は「胴切りの岩下」。背が低いので相手が「面」をねらってきたらそれをかわして相手の「胴」を打つわけ。これで勝っていたのでそんなあだ名になったのです。

 でも練習はきつかった。冬でも素足で練習するし、先ぱいからは「しない」でたたかれて体はアザだらけ。それでも剣道はやめませんでした。

 そんな中学生活を終えて、いよいよ船乗りになるために宮古海員学校での生活が始まるのですが、これがまた予想以上につらいものになります。その話は次回で。


(3)海員学校の訓練で船よい
 船乗りになるため岩手県の宮古市にあった国立宮古海員学校に入ったのは中学を出てすぐでした。青森や福島などから仲間が集まってきました。みんな一年後に卒業して商船、つまり人やモノを運ぶ船の乗組員になります。ところが、いざ学校に入って訓練を受けてみると、自分がひどい船よいをすることがわかりました。

 カッター(オールでこぐ大型のボート)の練習はもう地ごく。ボートをこぎ出して海に出ると気持ちが悪くなるんです。「こんなことで船乗りになれるだろうか」といつも不安でした。やめてしまおうと思ったこともありましたが、「もう少しがまんすれば外国にだっていけるんだ」と自分に言い聞かせていました。

 そのうち、海に出たあと、帰りのコースに入って陸が見えてくると、気分も落ち着いてくるようになりました。

 本当に長い一年でしたが、無事卒業。就職は学生の間で二番目に人気が高かった大阪商船三井船舶に決まりました。最初にこう板員として乗ったのはブラジルなど南米へ移り住む人たちを乗せていた移民船の「ぶらじる丸」です。この船は一九五四年に建造され、七三年の引退までに約六万七千人を運びました。

 いまでも覚えていることがあります。船がブラジルに着いていざ上陸となったとき、小さな子どもが船から下りたくないと泣くんです。日本からはるかはなれた外国で暮らすことになるわけですから、それは不安でさびしかったのでしょう。家族がなだめすかして下ろしましたが、本当にかわいそうに思いました。

 結局、商船三井では十年間で五せきの外航船に乗りました。一年間同じ船に乗り、一カ月休みというパターンです。初めて船に乗って感激したのは週三回、フルコースの夕食が出ることです。ナイフとフォークで食事なんて考えてもいなかったので「すごいところにきたなあ」と思いましたよ。

 「べるげん丸」という世界一周船に乗ったときは外国のいろいろな都市を回りました。貨物の積み降ろしで一週間ぐらい一つの港に停はくします。その間に町の中を歩き回り、宗教や文化、生活習慣のちがいをはだで感じることができました。ずっと外国航路の船に乗りつづけようと思っていましたが、それがある出来事をきっかけに変わってしまうのです。


(4)海で自然のこわさ知る
 世界中を回る外国航路から函館と青森を結ぶ青函連絡船にかわったのは、父の死がきっかけでした。世界一周船だと横浜を出港してから三カ月しないと日本にもどってきません。航海中に父がきとくになったという電報をもらいましたが、すぐに帰ることはできません。日本にもどったときはそう式もすべて終わっていました。

 私には兄と姉がいましたが、終戦後に旧満州(現中国東北地方)から引きあげるときに亡くなったので、父にとって子どもは私だけでした。親せきから「国内の船に乗ったら」とすすめられ、一九七六年に青函連絡船を運航していた旧国鉄青函局に入りました。そして、その五年後、子どものころからの夢だった、世界中どこにも行ける船長のめん状をとりました。

 連絡船は空知丸と十和田丸に乗りました。当時の津軽海峡はイカつり漁船がいまよりもっと多くて、いったいどこを通ればいいんだろう、と思いましたよ。その連絡船も青函トンネルが完成したためはい止になり、私も東日本フェリーに移りました。

 船乗りになって三十六年。海の上でいつも思うことは自然のい大さ、大切さ、そしておそろしさです。水平線のかなたにしずむ夕日は、ほんとうに美しい。でも、大シケのときはまったく表情を変えてしまいます。大あれの海をさけるために遠回りして港に帰るのが二週間もおくれたこともありました。船の運航でもっとも神経を使うのは、港を出るときと港に入るときです。いくら慣れていてもものすごくきん張しますよ。

 みんなは船に興味はありますか。船長になりたいと思う人はいないかな。そういえば小学校の同級生に飛行機にあこがれていた男がいました。夢を実現していまは航空会社でパイロットをしています。そのころはまだ船とか海には関心がなかったはずなのに、その同級生に「そっちが飛行機ならこっちは船にしよう」と話していた記おくがあります。無意識のうちに船乗りにあこがれていたのかもしれません。

 もし、みんなの中で船長をめざす人がいるのなら英語を勉強してください。航空機と同じくすべての交信は英語で行います。それに英語を話せると、外国の多くの人と意思を通じることができるからです。

 聞き手・編集委員 高橋純二


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