絵本作家

小泉るみ子さん
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 (1)森、畑、馬…思い出えがく

 (2)みんなで取り入れ

 (3)帰り道の「用事」

 (4)スキーで郵便取りに
◆小泉さん略歴◆

 こいずみ・るみこ 1950年美唄市生まれ。早稲田大学卒業後、絵の勉強を始め、絵本、教科書などのさし絵作家に。2年前から子どものころの暮らしと美唄の四季を描いた絵本「四季のえほん」(4冊、ポプラ社)を出した。千葉県松戸市で、夫と2人の子どもと暮らす。


(1)森、畑、馬…思い出えがく
 私は子どものころの思い出を絵本にしました。住んでいたのは、美唄市共練というまちです。森があって、畑があって、川が流れ、山がある。その向こうに空と雲が見える。近くには炭鉱もありました。四十年も前のことですが、よーくおぼえているんです。

 私の家はトマト、キュウリ、リンゴなどを作る農家でした。赤い屋根と大きなイチョウの木が目じるしで、畑の中の一軒家でした。春、水が温かくなる五月になると、近くで、カッコウが鳴くんです。姿は見えない。どこから来るのか分からない。でも、「カッコウ」という鳴き声を聞くと「春なんだなぁ」と思ったものです。父は「もう、寒くはならないな」と言って、畑のたねまきの合図にもしていました。

 通学路のと中にてい鉄屋さんがあって、春になると、農耕馬のてい鉄を、つめがある冬用から取りかえるんです。てい鉄を熱くしてひづめの形に合わせる。そして、じっとしている馬のあしをひょいとあげて新しいのを打ち付けていく様子がおもしろくて、かっこよかった。友だちとのぞきこむように、いつまでも見ていました。

 私の家にも、鼻すじに白いもようがある馬が一頭いて、アオバと呼んでいました。春は、畑を起こすのに使っていました。プラウがギラリと光り、黒土をはじいていく。力持ちの馬でした。冬、雪が積もると、父が作ったすきをつけて、雪に道をつけてくれました。

 家に帰って馬小屋をのぞくと、いない。そんなときは、近くの美唄川のほとりに行くと、川の中でのんびり水を飲んでいたりしました。

 えさをやったり世話をしたんですが、中学生になったある日、いなくなった。農作業が、動物の力から機械に変わっていく時代でした。どうなったのだろう、ひょっとしたら…。父に聞けませんでした。四十年近くたったいまも、こわくて聞けないんですよ。


(2)みんなで取り入れ
 私の家は農家でしたから、道具をしまう納屋がありました。夏でも暗くてひんやり。ふだんはだれもいない。くわやすき、使わなくなった昔の農機具がずらっとならび、かげからなにか出てきそうな場所でした。畑にまく肥料のにおい、青い硫酸銅(消毒液のもと)のぶきみな光を、よくおぼえています。父がそこで消毒液を作っている光景は、魔法使いの仕事のような気がしたものです。

 納屋の屋根うらは私のかくれ家でした。私の親はまんがの本を買ってくれなかったので、友だちから借りた本を、敷きわらの上でこっそり読んだものです。納屋は大好きな場所でした。

 夏は取り入れの季節です。キュウリ、スイカ、ウリ。いちばん目に焼き付いているのはトマトです。前庭いっぱいにひろがったトマトを手で箱につめるのですが、父や母だけでは人手がたりない。私や兄たちもりっぱな働き手でした。小学校から帰ると、お手伝いです。真っ赤な海のようなトマトの山を、せっせと仕分けしながら箱に入れていくんです。

 それでもいそがしくて、お手伝いのおばさんがいつも二、三人来ていました。「出面さん」といって、近くの炭鉱の住宅街に住んでいた奥さんたちです。話し声でガヤガヤとにぎやか。作業は、暗くなるまで続き、最後に家族そろって「ありがとうございました」と言って見送りました。

 たいへんなお手伝いでしたが、楽しみは休けいの時に食べるスイカやトウキビでした。トウキビは、みんなに注文を聞いて、その数だけ畑から取ってくるのが役目でした。兄たちは「おれ、五本食べる」とか、とにかくたくさん食べ、しかもそのあとで晩ご飯をまた、たくさん食べるんですよ。

 野菜をつめる箱に敷くのは新聞紙でした。家で取っている新聞だけでは足りないので、買うかもらうかしていましたが、その中に英語の新聞がまじっていることがありました。横にならんだ字がめずらしかったなあ。


(3)帰り道の「用事」
 秋になると、「用事」があるので、小学校(美唄小)からの帰り道を変えました。やっと歩けるぐらいの細い道で、と中、草むらがあって、それをぬけると林に入る。ラクヨウキノコがいっぱい生えていて、それをふまないように歩きました。そして、私の両親が育てているリンゴ畑、ナシ畑、ブドウ畑が続き、家に着くんです。

 そのリンゴやブドウを順番に食べて帰るのが、私の「用事」だったんです(笑)。リンゴは、ズボンのおしりでふいてガブリ。となりでは、ナシが私を待っていました。

 みなさん、ブドウって、ふさの先から色づいておいしくなるのを知っていますか。ふさ全部が色づくのを待てず、先っちょをつまんで食べるものだから、両親から「そんなことをしたら商品にならない!」ってしかられました。でも、おいしかったんだからしかたないですよね。

 よくおぼえているのは、地面にできた木やブドウだなの、まだらもようのかげ。赤や黄色になった葉っぱもきれいだったなぁ。そんな道草をしていたから母は、私のかぶっているぼうしが家から見えても、「家に着くまで半日かかる」と言ってからかいました。

 いねの収かくもありました。自分の家で食べるほどの水田でしたが、いねかりと、いねを干す「はさかけ」を夜おそくまで手伝いました。わらのせいで体がちくちくしたなぁ。

 そのころ、私は、水田はま四角なものだと思いこんでいました。開たくした北海道の水田はみんなそうだった。大きくなって本州の水田を見てびっくり。丸かったり、階段のようだったりして、おどろいてしまいました。

 いま、私は小さな畑で、野菜を作っています。ネギ一列、トウガラシ一列ほどの、ほんとうにせまい畑なのに、手入れがたいへん。七ヘクタールの畑があった私の両親はどんなにいそがしかったか、わかった気がします。

 収かくが全部終わると、野菜や果物のかれ枝を集めて畑で燃やしました。冬のしたくです。間もなく、うすむらさき色の「雪虫」が飛びます。初雪が近いな、と思いました。


(4)スキーで郵便取りに
 冬、雪がきれいだと思ったことはありません。小学校(美唄小)に行くのに、雪の中を一時間歩かなければならないし、両親が「雪が解けたら」「春になれば」と、春が待ち遠しそうだったのを、おぼえています。

 大雪の日は、集団下校です。みんな冷蔵庫みたいに寒い体育館に集まり、地域ごとに「○○方面」と書いた札の前にならぶんです。そのころ、学校には二千人近い小学生がいて、もうおおさわぎでした。私がいた共練地区に帰るのは五、六人しかいなかったけれど、先生が一人ついて、連れて帰ってくれました。ふぶきだと、息ができないほど。もう天も地もわからないまっ白の世界です。家についても「送ってくれた先生、ちゃんと帰れるのかなぁ」と心配になったりしました。

 そんな日は、ふだんは自分の部屋に入ったままの兄たちが、居間のストーブのまわりに集まってきました。一人きりでは何か不安になるんでしょうね。

 雪のある時期、私の「仕事」は、家からはなれた郵便受けを見に行くことでした。私の家は、除雪してある大通りから数百メートル入った場所にあり、雪が積もると大通りまで道がなくなりました。郵便配達の人がたいへんだろうと、近くの家が大通りの一カ所に郵便受けを集め、そこまで取りに行くようにしていました。私は学校の帰りにのぞいたり、家からだとスキーをはいて雪の上を十分ほどかけて取りにいきました。

 みなさんも同じでしょうが、お正月はやっぱり楽しい。年末は土間でもちつきをします。むしたもち米から、わーっとゆげがあがり、父がつきあがったもちを近所に配ったり、家のあちこちにそなえたり。おいしい料理を食べるのも楽しみでしたが、私がお正月をうれしいなぁと思ったのは、父や母がのんびりしていたからです。春から秋までは畑仕事でいそがしくて、夜はすぐ寝てしまう。冬は家にいても、いろいろ用事があるので、かまってもらえない。お正月はお母さんも、はなやいで見えるし、お父さんも落ち着いていて、あまえさせてくれました。

 これが、まだテレビもなかった時代の私の思い出です。

 聞き手・編集委員 斉藤紳一


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