グライダー教官

加藤隆士さん
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 (1)模型飛行機に熱中

 (2)ゆめは飛行機設計

 (3)ユーラシア横断に成功

 (4)純すいに空飛ぶ楽しさ
◆加藤さん略歴◆

 かとう・たかし 1955年山形市生まれ。日大4年のときに人力飛行機のきょり飛行世界記録をつくる。80年にヨーロッパへ。87年、ウィーンからモーターグライダーで帰国、話題を集めた。98年から「エアロスポーツきたみ」の主任教官。北見市在住。


(1)模型飛行機に熱中
 みんなは「大空を自由に飛んでみたい」という夢を持っていませんか。私も子どものころはそうでした。いま北見市にあるグライダーの愛好団体「エアロスポーツきたみ」の主任教官をしています。小さいときからの夢を実現させたわけです。

 生まれたのは山形市です。兄と二人兄弟でした。五さいのころに父が亡くなり、中学まで母の実家で育てられました。飛行機に最初に興味を持ったのは小学四年のときです。母に買ってもらった「驚異の航空」という本がとてもおもしろかったんですね。

 もともと勉強は理科とかが好きで、「どうして電波がとどくのか」とか科学的なことに関心を持っていたのです。その本をきっかけに飛行機にのめりこんでいきました。図書館にあった飛行機についてのありとあらゆる本を読みました。それで六年生になると、将来は旅客機のパイロットになりたいと思うようになるんです。

 そのころ買った本でいまでも家に残っているのが「少年少女科学全集・航空の世界」です。それを読んで、「飛行機はどうして飛ぶのか」と真けんに考えるようになりました。そこで熱中したのがゴム動力で飛ばす模型飛行機です。できるだけ遠く、できるだけ長い時間を飛ばそうと、毎日模型作りに打ちこんでいました。

 でも中学に入ると「体を動かすほうがいいかも」と体操クラブに入ってしまい、あれだけ熱中していた飛行機とはしばらくはなれてしまいます。それが二年生になってまた飛行機にもどります。県の模型飛行機大会というのがあったのですが、それに出るためには中学の科学部に入っていないとだめでした。大会に出場するために入部したのです。

 いまから考えると、そこで出会った部担当の先生がその後の自分の人生に大きなえいきょうをあたえることになりました。その先生は理科の担当で子どものころから飛行機が大好きだったんです。大学時代にはグライダーにも乗っていました。先生はいろいろな知識もあったので、模型飛行機をつくるときにたくさん教えてもらいました。そして私も同じように大学でグライダーに乗るようになるのです。


(2)ゆめは飛行機設計
 中学では模型飛行機づくりに熱中しました。前回話したように科学部のこ問の先生は大学時代にグライダーに乗っていた人で、どこをどうすると飛ぶようになるかとか、どうやって強度を増すかとか、むだな部分をなくして重量を軽くできるかとか、いろいろ教えてくれました。

 さて、その自信作を持って二年生のときに山形県の模型飛行機大会に出ました。二回飛ばすことができるのですが、一回目はなんと飛びすぎてどんどん会場から遠ざかり、最は見えなくなりました。これは残念ながら記録になりません。二回目は機体の調整に失敗して結局二位でした。

 その消えた飛行機ですが、あとからかなり遠くはなれた農家の人から「落ちてましたよ」と電話をもらいました。機体に住所と名前が書いてあったのです。飛びすぎなければ一位はまちがいなかったのですが。

 そんな経験もあって自分で飛行機を設計したいと思うようになりました。大学の授業で使うような「航空学辞典」とか「飛行機設計論」というむずかしい計算式がのっている本も読みました。読んだ、といっても当然ながらよく理解できません。でも、そのとき感じたのは、大事なのは設計者はこうあるべきだという信念であって計算ではない、ということです。

 つばさの先たんを丸くするか四角くするかは、どちらが正しいのかというより設計者のセンスの問題なんですね。設計は芸術といってもいいんです。だから算数を一生けん命やるより、ものを観察する力を養うこと、つまり飛行機を見て自分の力でいろいろと判断できるようにならなくてはと思うようになりました。

 高校では、やはり高いところが好きなのでしょうか、山がく部に入りました。でも、飛行機のことは考え続けていたのでしょうね。三年になって進路を決めるときに愛読書の「航空学辞典」の著者である木村秀政さんが教授でいた日大理工学部に行きたいと思ったんです。

 木村先生はもう亡くなりましたが、YS11という国産旅客機を設計した人です。子ども向けにも飛行機の本を書いていました。そこで航空宇宙学の勉強をするようになりました。


(3)ユーラシア横断に成功
 日大の理工学部に進むと、迷わずグライダー部に入りました。小学校からあこがれていたことがいよいよ実現すると思うとうれしかったなあ。

 ところでみんなはグライダーがどんなものか知っているかな。ふ通の飛行機とちがうのはエンジンもプロペラもないことだね。上しょう気流という空気のエスカレーターにのって、自然の力だけを使って高く、遠くまで飛ぶことができるんだ。風の音を聞きながら、大空を自由に飛んでいると、自然とひとつになったような気がします。

 グライダー部に入って操縦もするようになったのは、飛行機の設計をするならまず自分で乗ってみなくてはと思ったからです。そして四年のときにすごいことをやりました。卒業研究でみんなでつくった人力飛行機がきょり飛行世界記録をつくったんだよ。

 パイロットはもちろん私でした。といってもこれは名前の通り人力。ちょうど自転車みたいなもので、ペダルをこぐ力でプロペラを回します。千葉県の自衛隊のかっ走路を借りて訓練していたのだけど、世界記録まであと三百メートルのところまでいってから記録がなかなかのびない。それがスタート地点を変えただけで簡単に飛ぶことができたんですよ。

 そして忘れもしない一月二日、それまでの世界記録千二百メートルを大きく上回る二千九十三メートルを飛んでしまったのです。旅客機のYS11の生みの親である木村秀政教授が一番喜んでくれました。

 就職も飛行機に関係するところと決めていました。航空機部品の設計会社です。でもそのうち外国に行っていろいろなことにちょう戦してみたいと思うようになったのです。そのころグライダー技術についてはオーストリアが世界一でした。実際に行ってみると確かに大きな差があります。これはこしをすえてやらないとだめだと思いました。

 主にやったのはヨーロッパアルプスの山がく飛行訓練です。それを続けながらいつかモーターグライダーでユーラシア大陸二万キロを横断し、ウィーンから日本まで帰ろうと計画を立てていました。もちろんそんなことはだれもやったことがありません。そしてヨーロッパへ行ってから七年後、ついに成功したのです。夢をずっと持ち続け、努力すればきっと実現できる。それを確信できました。


(4)純すいに空飛ぶ楽しさ
 前回はモーターグライダーでウィーンから帰国飛行したことを話しました。ヨーロッパでの生活はなつかしい思い出ですが、ちょっとまよいもあったんです。それは友だちが旅客機のパイロット試験に合格したという手紙をくれたときのこと。正直いってうらやましいと思いました。

 自分はオーストリアのかたいなかでさら洗いのアルバイトをしながらグライダーの無着陸飛行記録をねらって訓練の毎日。友だちは会社のお金で勉強してパイロットでしょう。ずい分、差があるなあと。でもね、自分は会社にしばられないでふ通の人ができないことをやれる。何よりも自由があるんだ。そう思うと気が楽になりました。

 日本に帰ってからも南極観測隊にパイロットとして参加したり、グライダー曲技飛行の世界選手権に出たり、自分のやりたいことをやってきました。グライダーは純すいに空を飛ぶことを楽しむためのもので、お金にはならない。だからおもしろいんです。エンジンのある飛行機はパワーを上げればどこへでもいけます。グライダーはパワーがない分、高く上がるために自然の上しょう気流を効率よく使う必要があるんだ。つまり、自然と調和することが大事で、あらしのときは「人間なんて弱いものだ」と感じます。

 北見に住むようになって十年になります。その前の一年間、美幌町に住んでいました。モーターグライダーの操縦技術を教えるスクールを開きたくて、知人のすすめでそれまできょ点にしていた茨城県の飛行場からチロル号で飛んできたのです。その後、えんがあって北見に移りますが、こちらの景色は七年間暮らしたオーストリアの風景とよく似ているんです。

 周辺をふくめて飛行場が十以上もある。阿寒など国立公園が多く、空からの景色はすばらしい。日照率が高く、雨が少なく、自由な空域が多いんです。グライダーをやるうえで全国的にもめずらしいぐらい条件にめぐまれています。

 だからこんなすばらしいかん境を有効に使うべきですよ。いま考えているのは、若い人を育てて世界選手権に出てもらうことです。小中学生を対象に将来はスカイスポーツ少年団をつくろうと思っています。そのときはぜひみんなも参加してください。

 聞き手・編集委員 高橋純二


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