トロッコ王国美深の会会長

蓮沼優裕さん
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 (1)緑の中走るトロッコ列車

 (2)自分たちで遊び考え

 (3)電気、鉄道 やっと通る

 (4)仁宇布は元気いっぱい
◆蓮沼さん略歴◆

 はすぬま・まさひろ 中、高校をのぞき、仁宇布に住む。1950年から93年まで仁宇布郵便局勤務。98年スタートのトロッコ王国美深の会会長。自治会長をつとめ、本州からの山村留学生受け入れに力を入れる。73歳。


(1)緑の中走るトロッコ列車
もとの美幸線
 私が住んでいる仁宇布という場所は、上川管内美深町のまちから二十一キロ東に入ったところにあります。家は三十軒ほど、住んでいる人は七十人です。美深から来る途中、二十キロ近くは山の中にただ道があるだけで、だれも住んでいません。

 この小さな集落が、二十年ほど前、全国的に有名になりました。いまのJRがまだ国鉄だったころ、美深から仁宇布まで、道路の近くを通っていた鉄道・美幸線が、乗る人が少ないため、なくなろうとしていた時期です。住んでいる私たちと町役場は「鉄道を残してくれ」と、国に何度もおねがいしたり、東京の銀座できっぷを売ったりしたことが、新聞やテレビに大きくとりあげられたのです。

 残念ながら、美幸線は一九八五年になくなってしまいました。仁宇布に住んでいる人にとって、鉄道で全国どこへでも行けた時代は心強かった。いま、美幸線の終点だった仁宇布駅から片道五キロの元の国鉄の線路を使って、小型エンジン付きのトロッコを地域の人といっしょに走らせています。

 線路に沿って川や滝があり、小さいけれど鉄橋もある。静かな森にかこまれた緑のトンネルをゴトゴト走るのは、気持ちがいいですよ。今年で五年目になり、昨年は八千人近い「乗客」があったんですよ。

 私が仁宇布で生まれたのは、美幸線が開通する六四年(昭和三十九年)よりずっと前の二八年(昭和三年)です。仁宇布は、天塩川にそって開けた美深と、オホーツクをむすぶ道の「駅逓所」があったんです。駅逓所というのは、荷物をはこぶ馬車や行き来する人に宿や食事を出すのが役目でした。

 鉄道や自動車がなかったころ、ものや郵便をはこぶための大切な役所で、今でいうとホテルと食堂と郵便局、それに馬小屋をいっしょにしたようなところでした。私の父はその駅逓所の所長をしていたんです。

 所長といってもそのころは半分農家のようなものです。駅逓所の建物のそばに畑があり、両親は手があいたとき、私たち七人きょうだいは放課後、農作業にあせを流しました。


(2)自分たちで遊び考え
 駅逓所が、駅と郵便局と旅館をいっしょにしたような仕事だ−というのは前回話しました。仁宇布にできたのは明治時代で、私のおじいさんが最初の所長でした。まだ、道らしい道もない時代で、美深のマチから馬に乗り、道が消えている場所は川の中を歩いてやって来たそうです。

 当時の交通は馬でしたから、私が小学生のころも家で五、六頭飼っていて、よくせわを手伝いました。いちばんの遊びも「乗馬」でした。

 お金持ちのスポーツのように聞こえますが、私たちのは、くらをつけない裸馬にまたがる「馬乗り」でしたよ。馬の運動をかねて仲間たちと交代で走るのですが、速い上にくらがないから、よく落ちる。みんななら「けがはないか」「だいじょうぶ?」と心配そうにするでしょう。でも、友だちが心の底から大笑いしてひやかすんです。こしを打って痛がっているのに…。

 夏は仁宇布川でつりです。ヤナギの枝を切ってさおにする。ほり出したミミズをえさに、カジカやヤマベをねらって糸をたらすんです。川岸では切った木の枝を三角形に組み、その上にフキの葉で屋根をふいて「隠れ家」を作って、川の音を聞きながら寝ころがるんです。

 仁宇布で、今も昔も変わらないのは、寒さでしょう。ここは標高281メートルあります。氷点下四○度まで下がったこともあります。冬の遊びはたいへんでした。それでも元気でしたよ。駅逓所にあったスコップを持ち出して裏山にスロープをつくる。ミニジャンプを楽しむんです。楽しいから月が出るまでやる。手ぶくろがこおり始め、ポケットに手を入れてもあたたまらなくなる。家に帰るとからだ中コチコチでした。

 いま、仁宇布は小中学生合わせて十四人しかいません。そのうち十一人が本州などから留学してきた人です。私の時は全校で七、八十人はいました。学校やまわりの山や川は、仲間たちがワイワイとそんな遊びをするにぎやかな場所だったんです。いま考えるとあぶない遊びをしましたが、身のまわりにあるモノで自分たちで遊びを考えたものです。


(3)電気、鉄道 やっと通る
 仁宇布は美深のマチからはなれていたので、電気が通ったのは、一九六四年です。みなさんの両親が生まれたころですから、ずいぶんおそかったんですよ。

 私が子供のころから駅逓所の近くに、イモからでんぷんの粉をつくる小さな工場がありました。そこで使う電気は仁宇布川の水を使う水力発電機でした。水路をつくり、川から水を引いて発電機をまわすんです。

 当時、夜はランプでしたが、みんなすすが出なくて明るい電灯がほしかったのでしょう、発電機から自分の家に電線を引いて明かりをともす人が多かったのです。

 でも、発電機は小さくて十分な電気を起こせず、電灯が暗くなったり消えたりしたものです。冬もたいへんでしたよ。水路がこおると、水があふれて発電機がまわせないので、寒い日や雪のふった日は、小学校から帰るとつまった氷や雪を水路の外に出す手伝いをしました。でんぷん工場が止まると私たち子供もこまるんです。なぜなら、でんぷんをお湯でねっただんごがおやつだったからね。

 仁宇布から美深のマチまで二十キロ近くも家がなく、雪深い冬に行くのは危険なこともありました。私が大人になってからのことですが、仁宇布にいた林務署の人が十二月三十一日に美深に出かけました。ところが、いつまでも帰ってこないんです。元旦に郵便局の人が、仁宇布から四キロほどはなれた道のそばで、木によりかかっているところを見つけ、連絡してきました。

 「たいへんだ、救助しなければ」と、私もみんなといっしょにでかけました。その人を見つけると、ほっぺたをたたいて「目をさませ!」と大声で起こし、両わきをかかえて引きずるように運びました。命は助かりましたが、家がない二十キロの距離は、みなさんが考えるよりずっと遠くて危険だったんですよ。

 ですから、私も鉄道があればいいな、と子供の時から思っていました。そんなねがいがかなったのは六四年十月五日でした。昔の国鉄の美幸線が仁宇布まで運転を始めたのです。電気が通ったのと同じ年でした。


(4)仁宇布は元気いっぱい
 国鉄の美幸線が一九六四年に開通して、「鉄道があればいいなぁ」というねがいがかないました。子供のころ、仁宇布から美深のマチに出るためには、往復二日かかりました。朝五時に起きて、ランプをともし、馬の用意をしなければなりません。道路は、除雪もまだ十分ではなく、冬は通行止め。鉄道の開通で一日で往復できるようになり、電気も通ったので、私たちはこの年を「第二の夜明け」といって喜びました。

 美幸線は八五年、なくなりました。「百円の運賃をかせぐのに三千円以上のお金を使う」とか「日本一の赤字を出す路線」と言われ、開通からたった二十一年で消えたのです。乗るお客さんは少なかったのはたしかですが、私たちは息の根を止められたようなさびしさとくやしさを感じました。もう仁宇布には住めなくなるかもしれない、とも思いました。

 でも、私たちは元気に住んでいます。仁宇布の人や仲間で走らせているトロッコに乗ったり、森や川を見るために、本州から来るお客さんに楽しんでもらおうとがんばっているんです。

 最後に、私が卒業した仁宇布小学校(いまは小中学校)の最近のようすを話しておきます。いま、通っている子供は十四人です。人口七十人ほどの仁宇布にしては多いと思いませんか。実は、東京や札幌から留学してきた子供が十一人もいるんです。九一年に留学が始まってからもう二百人ほどが一年間、ここで学校生活を送りました。

 来た理由は「緑にかこまれてくらしたい」とか、「都会の学校ではうまくいかない」とかいろいろですが、ここに来るとびっくりするぐらい元気になるんです。

 勉強もするが、遊ぶのにもいそがしい。先生は十三人もいて、すぐなかよくなれる。一年間の留学なのに「あと一年」と言い出す生徒もいます。私が昔、さかなつりや「かくれ家」で遊んだように、みんなはつらつとしています。

 みなさんは、学校は「きらいでも、行かなくてはならないところ」と思っていませんか。ここの子供はちがうんです。ほんとうは、「楽しい場所」なんだと感じているんですね。

 聞き手・編集委員 斉藤紳一


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