マラソンランナー

有森裕子さん
トップに戻る
 (1)「がんばれば速く走れる」

 (2)中学ではバスケに熱中

 (3)朝から晩まで陸上づけ

 (4)何でも一生けん命やろう
◆有森さん略歴◆

 ありもり・ゆうこ 1966年岡山市生まれ。日体大卒業後、リクルートへ。91年大阪国際女子マラソンで日本最高記録。92年バルセロナ五輪で銀メダル。その後、両足かかとを手術。95年北海道マラソン優勝、96年アトランタ五輪は銅メダル。現在スポーツNPO(民間非営利団体)の代表、国連人口基金の親善大使も務める。アメリカコロラド州のボルダー在住。


(1)「がんばれば速く走れる」
 新しい年をむかえましたね。初もうでには行きましたか。私の子どものころは毎年、家族で地元の岡山にある吉備津(きびつ)神社というところに行っていました。その神社のお守りには忘れられない思い出があります。

 バルセロナ・オリンピックの女子マラソンで銀メダルをとったあと、両足をいためて手術を受けました。なやみました。どう生きていくべきか、走りたいのか、もうやめたいのか、走ることができるのか。復活をかけて出場したのが北海道マラソンでした。

 そのときスポーツウエアの左腰のあたりにぬい付けたのが吉備津神社の赤いお守り。赤は必勝祈願のお守りなんです。結果は大会新記録で優勝。本当にうれしかった。走っていると「アーリモリッ」とか「ユ・ウ・コ」とかの応援の声が聞こえます。手をふっている人の顔も見えます。沿道のみなさんの声援に背中をおしてもらってゴールすることができたんです。

 北海道マラソンは私にとって忘れられない大会になりました。もともとつながりがあった北海道との結びつきもさらに強くなったんですよ。

 きっとみなさんは私のことを小さいときから走るのが得意だったと思っているでしょうね。でもそうでもないんです。生まれたときは、こ関節脱きゅうという病気だったのでそのためにO脚になりました。だから走るのに苦労したみたいですよ。

 走ることを始めたきっかけは単純なことだったんです。みんなにも同じような経験があると思うけど、小学校の体育の先生にあこがれていたんです。それで、できるだけそばにいたくて、その先生が顧問をしていた陸上クラブに入りました。小学五年のときです。

 そのとき先生が特別速くもない私にこういってくれました。「がんばって走ればきっと速く走れるよ」。その一言がきっかけになりました。ずっと探していた「がんばれるもの」。それが「走ること」でした。先生は一生けんめいやることの楽しさを教えてくれたのです。今から思うと、そこがマラソンランナーとしての出発点だったんですね。


(2)中学ではバスケに熱中
 私が生まれ育ったのは岡山市です。みんなは岡山がどこにあるかわかりますか。中国地方・岡山県の南部、マスカットや桃の生産で知られているところです。家族は高校の先生だった父、それに母、兄と私の四人です。

 兄とは学年でふたつしかはなれていなかったので、いつもいっしょに遊んでいました。父の話では近所の人たちからはおてんばむすめと思われていたようです。兄の友だちの男の子を追いかけていましたからね。それにスカートよりも半ズボンのほうが多くて、よく男の子とまちがわれていたようです。

 性格は負けずぎらい。グループをつくって固まるのがきらい。ふつう女の子ってそういうのが好きでしょう。で、仲間に入らないといじめたり。だから女の子は苦手だったんです。男の子と遊んでいるほうがよかったんです。

 みんなはポートボールを知ってるよね。地域の子ども会にクラブがあって小学三年から入りました。当時は父が指導者だったんですが、「なにがなんでも自分はエースになるという意欲が見えない」といわれました。

 一人で守るのは得意なんだけど、ボールを持ってもパスをすることが苦手。ゲームに参加することができないという感じだったんです。戦うことがあまり好きではなかったんですね。だから主力選手になれなかったと思います。

 それで中学に入って本当は陸上部に入りたかったのだけど、部員が二、三人しかいなくて、どうせやるなら大きなクラブでと思い、バスケットボール部に入りました。

 朝、夕と部活に明け暮れる生活が続きました。レギュラーになってもならなくても、自分なりに一生けん命練習しました。そこが買われたのか副キャプテンになりました。そんな中で感じたのは人間関係のむずかしさです。バスケットボールは一人のミスが全員にひびくでしょう。だからミスをしないようにとプレーが硬くなってしまうんです。

 そういうわけで中学時代は陸上からはなれていました。そんな中でたまたま体育祭の800メートル競走に出場したら一位に。結局、三年連続で優勝しました。それが自信になっていたのでしょう。進学した高校は自宅の近くにある就実高。そこは全国に知られた陸上の名門校だったのです。


(3)朝から晩まで陸上づけ
 前回話したように、私の入った就実高は女子バレーボールとならび陸上の名門校として全国に知られていました。岡山県内から優秀な選手を集めていたのです。

 私も入学してすぐに陸上部の門をたたきました。でも、監督からは「いらない」と門前払い。当時、就実高では中高一貫で才能をのばす方針だったようで、中学時代に体育祭の記録しかなく、正式な大会での記録がない私はだめだということらしかったのです。

 でも、あきらめずに監督のところに行きました。断られても、断られても「陸上をやるために就実に入ったのです」と体育教官室に通いつめ、やっと入部を認められました。

 陸上部に入ってからは毎日、朝は七時に家を出て朝練(朝の練習)、放課後は午後七時ぐらいまでまた練習。土曜も日曜もなく走りました。勉強もしなくてはと思っていても、夕食が終わって自分の部屋に行くと、ついうたたね。母から「やるべきことはやらなくてはいかんでしょう」といつもしかられていました。

 陸上づけの毎日でしたが、貧血になったり、足の調子が良くなかったりして、結局国体にも高校総体(高校の全国大会)にも出ることができませんでした。

 卒業の時期が近づいてきたとき、あるできごとがきっかけで「大学に進んで走り続けよう」と決意することになりました。それは京都の都道府県女子駅伝。三年連続で補欠になり、何ひとつ恩師(陸上を教えてくれた先生)に残せなかったことで、一度でいいから良い走りを京都で見せたい、そう心に決めたのです。推せん入学の話がきた日体大に喜び勇んで進みました。専攻(おもに勉強する学科)は3000メートル。また走る毎日が始まりました。

 入ってすぐの関東インカレ(大学選手権)で二位、その年に初めて京都を走ることができ目標は達成しました。その後は大学女子駅伝の区間新記録ぐらいで、これといった成績は残せませんでした。まだ自分の力を出し切っていないという心残りがあったのです。

 本当は、大学卒業後は岡山県で先生になるはずでしたが、「お願い。あと二年間走らせて」。そう父にたのみました。


(4)何でも一生けん命やろう
 大学を卒業して就職したのが陸上の名門、リクルートです。実はここでも最初はランニングクラブへの入部を断られたんですよ。大学時代は目立った記録を残していませんでしたから。そのとき「あなたのやる気を買いましょう」と受け入れてくれたのが小出義雄監督でした。

 一万メートルを専門に始めたのですが結果が出ず、入社半年たって練習できるようになったマラソンに集中するようになりました。とにかく走りました。人と同じことをしていると負けてしまうからです。オリンピックに出られただけでなく、連続してメダルを取れたのも、自分のペースで自分の力を信じて、こつこつ練習してきたからだと思います。

 みんなも何でもいいから本当に自分ががんばれることを見つけて、全力でぶつかってほしいな。失敗してもいいんだよ。一生けん命に何かをすることで、好きな自分、きらいな自分、本当の自分の姿が見えてくるはずだから。自分で考えて、自分の力で何かをすることが大事なんだよ。

 私はいま、ランナーとしていろいろなスポーツイベントに参加しながら、スポーツNPO(民間非営利団体)の代表をしています。この連さいの一回目が掲さいされたとき、となりにあった記事を覚えていますか。対人地雷で手足をうばわれたカンボジアの子どもたちのリポートがのっていましたね。

 このNPOは「ハート・オブ・ゴールド」といって、子どもたちの義足づくりを支援する目的でつくられました。「心の金メダル」を目標にしよう、という意味です。アトランタ五輪のあと、地雷をなくそうと呼びかけるアンコールワット国際ハーフマラソンに招待されたことがNPO設立のきっかけとなりました。それ以来、2002年12月の大会まで七年連続で出場しています。

 スポーツの力って大きいと思います。スポーツを通して勇気や希望をいっしょに持つことができるからです。カンボジアで地雷で手足を失った子どもたちに会ったときはショックでした。でも、みんなの目はかがやいていました。子どもたちが自分自身の中に生きる力を見つけられるように、これからもずっと見守っていきたいと思います。

 聞き手・編集委員 高橋純二


戻 る