プロ野球・日本ハムの選手

渡辺孝男さん
トップに戻る
 (1)もう一度プロで挑戦

 (2)友だちでき おもしろみ

 (3)先を見すえた努力

 (4)高校予選で全校応援
◆渡辺孝男さん略歴◆

 わたなべ・たかお 1974年札幌生まれ。札幌篠路高校から92年に西武に入った。その後、社会人野球のサンワード貿易を経て昨年秋に日本ハムに入団。プロ野球に復帰し、1軍定着を目指している。父・喜代美さんと母・明子さんは札幌在住。


 (1)もう一度プロで挑戦
 もうすぐプロ野球のシーズンが始まるね。みんなはどこのチームが好き? ぼくは、今シーズンからパ・リーグの日本ハムファイターズでがんばっている。ポジションはキャッチャー。もう知ってると思うけど、日本ハムは来年から札幌を本拠地にするんだよ。今年も札幌ドームで十試合行うから、みんなに応援してほしいな。

 ぼくがプロに入るのは、今回が二度目。最初は高校を出て西武ライオンズに入り、九年間プレーした。それから二年間、札幌の社会人チームのサンワード貿易で野球を続けていた。昨年は社会人の全国大会で初めてベスト8に勝ち進んで、ぼくもホームランを打ったんだよ。そうしたら、秋に日本ハムから声をかけられて、もう一度、プロ野球に挑戦することにしたんだ。

 ぼくは札幌生まれ。おやじは自動車の整備工場をやっている。前は北区の新川に住んでいて、ぼくが小学校に上がってから北区新琴似に引っこした。ぼくは次男坊で、二つ上の兄・佳男と二人きょうだい。兄貴は社交的なタイプでね。人と接するのがうまい。逆にぼくは内向的で、自分から外に出て行かないタイプ。小さいころは、遊ぶときも兄貴のあとばかり追いかけていた。

 新川にいたころは、お化け屋敷を探しに行ったり、近所の空き地に基地を作って遊んだ。兄貴は釣りにハマっていて、よくコイやフナを釣りに行ってた。ぼくは、めんどくさいなと思って、そこまではハマらなかった。

 そのころのことで、忘れられないことがある。兄貴と家にあった小銭を勝手に持ち出して、近くのゲームセンターに遊びに行ったんだ。まだテレビゲームがめずらしいころで、あとで母ちゃんにバレておこられた。はだかで正座させられて、たたかれたよ。そのあと、一週間くらいしてから、両親がゲームセンターに連れて行ってくれた。子供たちはゲームをやりたいんだなと思ったんだろうな。

 でも、それからは、ぼくらはゲームセンターには行かなかった。お金をぬすんで遊ぶのは良くないことだと子供心にも分かったから。


 (2)友だちでき おもしろみ
 ぼくが野球を始めたのは新琴似に移ってから。最初のきっかけは、やっぱり兄貴だった。兄貴が先にリトルリーグの新琴似ウインキーズに入っていて、ぼくが新琴似西小三年生のときに、練習を見に行かないかとさそわれたんだ。

 前にも言ったように、ぼくは内向的な性格だったから、行きたくなかったんだけど、しょうがなく行ってみたら、練習で兄貴がコーチにめちゃくちゃおこられてる。「おお、こえーなー」と思った。当時は、コーチはおこって当たり前。今とちがって、親も「どうぞ、おこってください」って感じだった。今は、おこるよりほめないとダメ。ずいぶんちがうよね。

 だから、そのときは、野球チームなんて、入りたくなかった。「君たち入らないか」と聞かれて、いっしょに行った子は「入ります」と言ったけど、ぼくは「やです」と答えた。そうしたら、おやじに「ちょっとキャッチボールやってみ」と背中をおされた。それがきっかけで、結局、入ることになってしまった。

 おやじは、きっと、分かっていたんだろうな。ぼくが内向的だから、野球でもやって友だちを作ったほうがいいって。ぼくはというと、もう、苦痛で苦痛で。せっかくの休みの日にも野球をしなければいけないし、練習はキツイし。ずる休みもしたよ。友だちとボール遊びをしていて、おやじにすごくおこられた。

 小学校に入ったころは、ぼくは何をやっても消極的で、コソコソしているタイプだったけれど、野球をやり出してから成長した。友だちができて、外にも出るようになった。兄貴にも、おまえ変わったなと言われた。

 とはいっても、なにせ練習がきらいで、特に走るのはイヤだった。きつくて、もうやめようと思ったこともある。ところが、六年生のときにキャプテンになって、やめられなくなってしまった。

 ぼくはキャプテンのタイプじゃないし、選手をまとめる能力もない。だけど、当時のぼくの学年は、ぼく一人しかいなかったから、仕方がなかった。

 たぶん、今までで最低のキャプテンだったんじゃないかな。でも、それから少しずつ、野球のおもしろさ、すばらしさが分かってきた。


(3)先を見すえた努力大切
 うちのおやじは、子供の心をすごく考えてくれていた。ぼくらは休みの日も野球、野球で遊びにも行けないから、練習が終わってから、「釣りに行こう」と海に連れていってくれた。うそや曲がったことはきらいで、バスケットボールがはやったときに、ぼくが野球をやめたいと言うと、「中途ハンパなのが一番きらいだ。がんばって練習に行け」とおこられた。

 両親が言うには、ぼくはガンコで、しかってもひるまない。「出て行け」と言ったら本当に出て行ってしまう。びっくりするほど、ごうじょっぱりだったって。今では、おやじはまちがったことを言わないとわかる。でも当時は、そう考えられなかった。おやじも苦労したと思う。

 野球チームでは、ぼくは、小学生のときから、かたがほかの人より強かった。ポジションはキャッチャーをしたり、ピッチャーで投げるときもあったよ。

 ぼくらのチームは、札幌ではそこそこ強かったけど、当時、旭川にすごく強いチームがあって、全国大会には進めなかった。ぼくが六年生のときは、あと一歩まで行った。準決勝でそのチームとぶつかり、ぼくが投げて勝った。絶対に勝てないと言われた相手に勝てて、大喜びしたんだ。決勝もいけるぞ、と思っていたら、負けてしまった。

 リトルリーグはピッチャーが連投してはいけないルールで、決勝も投げたかったけど、投げられなかった。決勝で負けて、コーチには「銀メダルなんていらないんだよ」と、おこられた。そのときは、もっとほめてくれてもいいじゃないかと思ったけれど、今は、コーチがおこった理由がわかる。

 みんなに言いたいことは、何かをするときには先のことを考えてほしいということ。野球などをしていて、たとえ試合に出られなくても、くさるのではなく、もっとうまくなろうという気持ちをもってほしいんだ。

 何も考えずに、ただ練習していてはダメ。自分には何が足りないのか。うまくなるためにはどうしたらいいか。追い求めていけば、自然と結果が出る。努力して、自分の力を上げていけば、あとで必ず、いいことがある。ぼくも、ずっとあとになって、そのことに気がついた。


(4)高校予選で全校応援
 子供のころ、ぼくは、大人になったら消防士かコックさんになりたいと思っていた。何か、人のために役に立つ仕事がしたかったんだ。消防士は体を使うし、命がけの仕事で、かっこいいなと思った。

 ぼくの中学は札幌の新琴似北中。高校は兄貴の友人から「いっしょに野球をやろう」と声をかけられて篠路高校に入った。一年生で、いきなり試合に出たんだよ。でも、そのときは、ぼくが打てずに負けてしまった。ぼくは、練習試合ではバカバカ打つのに、大会になると力んでしまってダメだった。二年のときも結果が出せず、先ぱいたちに悪いことをした。

 三年生の夏の大会はエースナンバーをもらった。ぼくはキャッチャー式の投げ方だから、一日投げると、ひじが張って次の日は投げられない。投げない日はキャッチャーで出て、ヒットも打った。札幌支部予選を勝ち進み、念願の全校応援をしてもらった。

 支部予選の準決勝では、ぼくがノーヒットノーランをして勝った。あとひとつで全道大会だったけれど、ひじが張って、もう、いっぱいいっぱいだった。決勝ではひじを冷やしながら投げて、善戦したが負けてしまった。仲間たちと一生けん命やってきて、最後もいい試合ができたから、くいはなかった。そのころの仲間とは、今でもずっと、つきあっているよ。

 その年に、プロ野球の西武からドラフトで指名された。うまくなろうと思って野球を続けていたら、知らないうちにプロになっていた。西武では、あまり一軍で活躍できなかったけれど、今回、日本ハムに入ってプロにもどり、もう一回チャンスをもらった。前のときのくやしさを肥やしにしてやりたい。

 無理かなと思っても、がんばって努力していれば、何が起こるかわからない。何事についても、そう言えるんじゃないかなと思う。

 ぼくも、今度こそ、レギュラーをとりたいなあ。日本ハムは来年から北海道に移るチームだから、期待の重さも感じる。日本ハムが強いチームになって優勝争いをできるようになれば、北海道の人たちも、きっと熱くなって応えんしてくれるはず。あまい世界じゃないけれど、気持ちを前向きに持ってがんばるよ。

 聞き手・編集委員 森川潔


戻 る