気象学の北大名誉教授

菊地勝弘さん
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 (1)お米が取れないのはなぜ

 (2)新聞配達で体きたえる

 (3)観ようと思えば見える

 (4)自然のふしぎ ぜひ観察を
◆菊地さん略歴◆

 きくち・かつひろ 根室管内標津町の標津小、標津中を経て、中標津高校から横浜国立大学を出て、北大大学院へ。1980年、北大理学部教授。98年に定年退官し、新設の秋田県立大学教授に。雪の結晶、降雪現象研究の第一人者。67−69年、第9次南極観測越冬隊に参加、最近は北極圏での気象研究をしている。97年、紫綬褒章。68歳。


(1)お米が取れないのはなぜ
 私は秋田市にある秋田県立大学で、「気象学」という学問を学生といっしょに研究しています。気象学は天気予報のほか、「雨」という字が入っている「雪」「雲」「霧」「雷」などの漢字があらわす天気のようすや、なぜ雨がふるか、どんな形の雪ができるかなどを勉強する学問です。

 私は北海道大学にいた時も入れて、五十年近く研究を続けています。南極にも行ったし、いまも大学のへやのコンピューターには、北極に近い寒い外国から、天気を調べた数字がどんどん入ってくるんですよ。

 みなさんは、学問とか研究は大学に入ってからするのだと思っているかもしれません。でも、私は子供のころ過ごした北海道ならではの思い出がきっかけで、気象学の研究を始めたのです。暖かい場所で生まれていたら、南極へ行こう、北極で研究しようと思うことはなかったかもしれません。

 生まれたのは一九三四年(昭和九年)。ふるさとは根室に近い標津町で、高校を卒業するまで住んでいました。

 標津や根室、釧路は今もお米がとれないでしょう。子どもの時、私は授業で日本はお米の国だ、と聞いたのに、自分の住んでいる町でイネがなぜ実らないかわからなかったのです。近くの農家が畑で育つイネを栽培しようとして失敗した話も聞きました。なぜ、米がつくれないのか、不思議でなりませんでした。

 そのころ、家で買う米の中に、モミがらがついたままのがまじっていたので、それを集めて、ふちが欠けたすりばちに土を入れて育ててみました。気温が低い時は家の中に入れるなどして、大事に育てたからでしょう、立派なイネの穂が出たんです。その時のうれしさは忘れられません。

 中学三年の時、夜行列車を乗りついで小樽まで修学旅行に行きました。空知の滝川市のあたりだったと思います。汽車の窓から外を見ると一面、水田なのです。はじめて見る景色にびっくりしてしまいました。

 高校生になって、道東は霧と、気温が低いせいで米ができないことを知りましたが、天気を調べるのはおもしろそうだと思ったのは、そんな思い出があったからでしょう。


(2)新聞配達で体きたえる
 ふるさとの根室管内標津町(当時は村)は、私が子供だった太平洋戦争前はサケ・マス漁の漁船が出入りし、かんづめ工場もあってとてもにぎやかでした。いまはとなりの中標津町のほうが大きいけれど、それは戦争後のこと。昔は標津のほうが活気があって、人口も多かったのです。

 家は村役場の真向かいの雑貨店。いまのコンビニのようなお店です。店のすみにはお酒を立ったまま飲める場所があって、まちの漁師さんたちがいつも集まっていたそうです。「いたそうです」と言ったのは、小学生の時にはもう店をやめていたからです。母は「お父さんは人がいいからただでお酒を飲ませていたのよ」と言っていました。だから店を閉めなくてはならなくなったのでしょうね。

 ですから家のくらしはあまり楽ではありませんでした。私は兄三人、姉四人の八人きょうだいの末っ子で、私が小学生の時はいちばん上の兄はもう働いていて、家を支えていました。私も標津小の四年から標津中を卒業するまで六年間、新聞配達をしていたんです。配っていたのは百けん以上でした。そのころは汽車で朝刊を運んでいて、村に着くのが午後。私は学校の授業が終わる午後三時ごろから配り始めます。冬、配達が終わると、もう真っ暗でしたね。

 もう一つ、中学卒業まで四年間続けた仕事が水くみでした。当時の村長が村のはずれに家を建て、いどをほったけれど、水が茶色くにごっていて飲めなかったのです。私が新聞配達のあと毎日、二百メートルほどはなれたいどから、かたにてんびん棒を乗せ、水が入った重いおけを二つかついで二、三回運びました。

 ある年、新聞店からもらった特別のお小づかいを落としてしまいました。五円ほどだったと思います。今なら何千円か、何万円かでしょう。高校に行くために貯金していたので、真っ青になってさがし回りました。標津神社の近くで見つけた時はうれしかったなあ。

 そんな子供時代だったので、体は強かったね。小学校から高校卒業まで十二年間、学校を休んだことは一度もありません。かぜぐらいひいただろうって? かぜぐらいで休む気はなかったし、母も休ませてくれませんでしたよ。

 大人になって、夏でも氷点下四○度の南極点に行ってがんばれたのも、いまも元気で研究ができるのも、子供の時に体をきたえたおかげだと考えています。


(3)観ようと思えば見える
昭和基地で発見したやりの先のような雪の結晶
 標津町(根室管内)は昔、今より雪が多かったと思います。当時、標茶(釧路管内)などに行く標津線という鉄道があり、ふぶきの時は線路にふきだまりができ、汽車が走れなくなります。

 そこで時々、「キマロキ」という編成の除雪車が来ました。先頭に機関車、次に雪を集めるマックレー車、三両目が集めた雪をはね飛ばすロータリー車、最後にまた機関車。四両の最初の文字を並べてキマロキと呼んでいました。その時、町中の人が集まってキマロキが走れるように除雪をするのです。たいへんな作業でしたが、汽車が通らないとたいへんだ、とみんなで協力したのです。家から鉄道の標津駅までの道でも、友だちと積もった雪をほって、雪でふたをした落とし穴をつくって遊びました。だれかが落ちると大喜びしたものです。

 雪といえば、みんなは六角形をしていることを知っていますね。冬に服についた雪を見ると、六角形の花のようにきれいなもようが見られますね。でも雪の結晶ができる時の上空の気温、しつ度、高さなどがちがうと六角形にならないこともあるのですよ。

 私は一九六七−六九年、南極観測隊員として南極圏の昭和基地で越冬しました。今のようにコンピューターはなく、氷点下三五度にもなる真冬でも、雪が降ると外に出て空もようを調べ、けんび鏡で雪の結晶の写真をとりました。

 そこで見つけたのが、やりの先のような形の雪だったのです。最初は「雪や、しものかけらがまい上がったのではないか」とか、研究している人の間でもそんな雪の結晶があるとは信じてもらえませんでした。でも、日本に帰ってから石狩などで機械を積んだ風船を五千メートルまで上げて観測したら、やっぱりあったのです。今では、低温になると雪の結晶もいろいろな形があるというのが、ふつうの考えになりました。

 私は、みんなに「観ようと思えば、見える」とよく言います。みんながない、と言うからないのだと思わないでください。「観る」というのは、何かあるに違いないとしっかり観察や観測をすることです。そうすれば、びっくりするような発見、自然のふしぎや美しさがわかると思います。


(4)自然のふしぎ ぜひ観察を
 雪の結晶を研究するために、アメリカの南極点基地にも一九七五年と七八年の二回行きました。地球の南のはしです。冬は氷点下八○度、夏でも氷点下四○度になります。あたり一面の大雪原で、荷物や人を運ぶ飛行機が雪の上のかっ走路から外れる事故があるほどきびしい気候ですが、東京から飛行機を使って五日で着きました。日本の南極越冬隊で昭和基地に行った時は、船で一カ月もかかったのにね。基地のへやもホテルのように立派でずいぶん便利になったなあと思いました。

 地球の北のはし、北極圏には数えきれないくらい行きました。最初は四十年近く前でした。北海道大学で気象学を勉強していた時、物理学と雪の研究で有名な中谷宇吉郎という先生に呼ばれ、北緯七○度に近いバローみさき(アラスカ)近くの湖に行かないか、と言われました。湖に張っている氷を調べるためでした。

 ただ、道がなく小型飛行機で行かなければなりませんし、どんなところか分からなかったんです。そして、仲間と二人で湖に着いてびっくり。ねとまりする小屋のドアに長いくぎが外向きにたくさん打ちつけてあるのです。

 世話をしてくれるカナダの人に聞くと、近くにシロクマがいて、小屋の中の食料をねらってドアを破るかもしれないというのです。くぎは、シロクマがあしでドアをたたかないようにするためだったのです。

 その湖には半年いる予定でしたが、一緒に行った仲間がさびしがったので、一カ月ほどで引きあげました。南極をはじめ北極圏のカナダ、グリーンランドなど「極地」といわれるところへ行った中で、いちばん大変な場所でしたね。

 私は雪や雷など気象学の研究を続けています。それは、外に出て体で感じ、目で見ながら研究するのが楽しいからです。北極圏には毎年のように行きますし、南極点へも研究のために「行け」と言われれば今でもすぐに飛んで行きたいぐらいですよ。

 みなさんも自然の中で起きるさまざまなことに興味を持ってください。おどろいたり、なぜかなと思うことがあったら、学校の先生や両親に聞きながら観察したり、勉強してみてください。

 聞き手・編集委員 斉藤紳一


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