プロゴルファー

高橋勝成さん
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 (1)試合で休みは週1日

 (2)野球が好きで投手に

 (3)野球を忘れゴルフに熱中

 (4)プロに合格、さらに勉強
◆高橋勝成さん略歴◆

 たかはし・かつなり 1950年札幌市生まれ。北海高、日本大学経済学部を卒業し、75年にプロテストに合格。ジャンボ尾崎選手を決勝で破った87年の日本プロマッチプレー、ラークカップ、北海道オープンなど優勝14回。ほかに海外で1勝、シニアで5勝。家族は由貴子夫人と成輝くん(小5)、勝紀くん(小2)。兵庫県西宮市在住。


(1)試合で休みは週1日
 私の仕事はプロゴルファーです。みなさんのお父さんやお母さんにも、ゴルフを楽しんでいる人がいるでしょうし、君たちもパークゴルフやゲームでゴルフのことをよく知っているかもしれませんね。

 プロには、全国各地で行われるゴルフの大会に出場するツアープロと、練習場などでゴルフを教えるレッスンプロがいます。

 だれもがツアーで賞金をかせぎ、生活することができるわけではありません。大会に出る人数には限りがあり、年間の賞金ランキングの上位の選手から出場権があたえられるので、みんな必死なのです。

 五十歳になると、シニアツアーという競技もあり、私は三年前からシニアの大会にも出ています。六月初めには全米プロシニア選手権というアメリカの大きな試合で戦ってきました。

 どんな仕事も同じだと思うけれど、ゴルフを仕事にしているのも楽ではありません。試合はだいたい、木曜日から日曜日までの四日間ですが、火曜日には試合会場のゴルフ場に入って練習するので、休みはふつう月曜日だけです。

 家族といっしょに過ごせる時間がとても少ないのです。試合に出ていると旅行の連続になりますが、日曜日の夜には必ず、兵庫県西宮市の自宅に帰るようにしています。

 小学生の男の子が二人いて、できるだけいっしょにごはんを食べたり、話したり、遊んだりしたいからです。

 二人の息子のうち、小学二年生の弟は、難しい病気にかかっています。三歳のときから病気とたたかっているのですが、その姿を見ていて「子どもはとにかく健康であってほしい。あとはなにも望まない」という気持ちになります。

 みんなは元気に過ごしていますか。

 健康にめぐまれているなら、テレビゲームばかりしていないで、外でうんと遊んでほしいと思います。勉強はそんなにできなくとも、体さえじょうぶであれば何事にもがんばれます。健康のありがたさを、知ってほしいな。

 難病とかハンディがあっても、苦にするばかりじゃなく、必ず乗りこえることができると思ってほしい。絶対に負けちゃいけないよ。


(2)野球が好きで投手に
 私は、札幌市の真ん中、本府地区と呼ばれる中央区内で生まれ育ちました。小学校は、今の札幌市役所の場所にあった中央創成小です。

 勉強は得意じゃなかったけれど、体格が良かったし、運動会ではヒーローになれたんだよ。足が速かったので、一年生から六年生までリレーの選手でした。

 でも、学校に入る前は体が弱かったそうで、四歳から柔道を習いました。週に三回、ススキノの方にあった柳沢道場に通い、おかげで体がじょうぶになったようです。

 小学校では野球に夢中で、四年生の時、本府地区の少年野球チームに入りました。ピッチャーをしたり、サードを守ったりしましたが、優勝するほど強いチームだったんですよ。

 とにかくスポーツが大好きで、冬には中島公園の池でスケートを楽しみました。

 はずかしいのですが、子どものころは、いじめっ子でした。授業中におしゃべりしたり、友だちをいじめたりしては先生によくたたかれました。

 今になってようやく、先生がなぜおこったのか、どうしてたたいたのかがよく分かります。先生はにくくて、たたくんじゃない。子どもに対する愛情があればこそです。

 小さい時は、言葉で言い聞かせてもなかなか分からない。痛さで理解させなきゃならないこともあるんですね。大けがをしてからではおそい。火に手を入れてやけどする前に、痛みを分からせる必要があるということです。

 先日、息子が通う小学校に呼ばれて、そんな話をしました。父や先生によくたたかれたという話をすると、みんな興味深そうに聞くんです。

 暴力や虐待とはちがいます。親も先生も愛情があるから、子どもをたたいた。昔は、それだけ先生が親身に見つめてくれた気がします。

 でも、中学生や高校生になって、態度が悪いとか、いねむりしたからとむやみにたたく先生には反発しましたね。

 中学校は、野球が強い北海中に進みました。父は、別の中学でもっと勉学にはげんでもらいたかったようですが、やっぱり野球がしたかった。

 中学でも投手でした。巨人の長嶋(茂雄)さんや、国鉄=当時=の金田(正一)さんの全盛期で、金田さんのまねをして大きなカーブを投げるのが夢でした。


(3)野球を忘れゴルフに熱中
 北海中で野球部に入り、おもしろがって変化球を投げすぎたせいで肩の痛みになやまされ、とうとう肩をこわしてしまいました。中三になるころは学校に行くのもいやになり、ぐれ出してきたんです。最初の挫折でした。

 父がゴルフにさそってくれたのはそんな時です。真駒内公園にあったゴルフ場でプレーを見たことがありますが、走るわけでもない。バッグに十何本もクラブを入れ、止まった球を打つのに当たらない。「これはスポーツじゃない。年をとっても絶対にやらない」とばかにしていました。

 でも、父は強引に、ぼくを室内練習場に連れて行きました。ぶらぶらしている息子を見かねたのだと思います。

 軽べつしていた競技ですから「こんなもの」と思ってドライバーで球を打ちまくりました。野球をしていたおかげで空振りもしないし、ボールもよく飛ぶ。十箱二百四十球を打っても何ともない。周りの大人が「すごいな」と感心したことを覚えています。

 家に帰ると、全身が痛くてしかたがない。それを見て父が大笑いしました。父は厳しくて、礼儀や食事の作法にうるさかった。笑う顔を見たのはその時が初めてでした。父と同じ話題が持て、笑顔のある食事ってこんなに楽しいのか、とうれしかったですね。

 それからは、学校から帰ると父を練習にさそうようになりました。豊平川の河川敷に練習場があったのですが、ぼくのボールはよく飛ぶけれど、ひどく曲がる。「やっぱり教えてもらおう」とプロのレッスンを受けました。

 初めて回ったコースは苫小牧市内で「ゴルフ場ってこんなに広いのか」と感動しました。スコアは一二六。父に一打勝ったのがうれしかった。

 でも、上手な人のボールはなぜ真っすぐ飛ぶんだろう。どうしてあんなに遠くて小さい穴に四打や五打で入るんだろう。まるで手品か超能力を見ているようで「奇跡だ」と思いました。それからはすっかり野球を忘れ、ゴルフの練習にのめりこんだのです。

 北海高でもゴルフを続け、学校にないしょで大会に出ました。「学生がゴルフなんかやるもんじゃない」という時代でしたからね。

 バンカー(砂場)ショットはどうすればうまくなるのか−というふうに一生けんめい考える。教わるのはきらいで、自分でなぞ解きをするのが好きでした。


(4)プロに合格、さらに勉強
 プロになろうと思ったのは北海高二年のころです。ゴルフの研修生になるために、父にはないしょで小樽市内のゴルフ場に願書を出しました。

 すると、それを知った父に往復びんたをくらいました。父は「趣味でゴルフをやるならいい。プロなんて、まともな人間の仕事じゃない」という気持ちだったんですね。

 それで、ゴルフが強い大学(日本大学)に進み、ゴルフ部では主将をやりました。団体戦は負けなしでしたよ。

 父は不動産業やボウリング場経営などをしていて「大学を出たら一年間は札幌で仕事を手伝う」と約束させられました。でもプロゴルファーの夢があきらめられず、一年後に家出をして茨城県に行き、ゴルフ場の研修生としてプロテストを目指したのです。

 好きなゴルフができるうれしさで、働きながら夜おそくまで練習しても苦になりませんでした。テストには一回で合格しましたよ。

 一番思い出に残る試合はプロになって九年目、一九八三年の新潟の大会です。最後のホールまで一打リードし、五十センチのパットを入れれば優勝という場面で、見事に外してしまった。すごいプレッシャーがかかっていたのです。

 その経験でゴルフへの取り組み方が変わりました。技術だけ覚えてもだめ。自分の性格を知り、変えられるところは良い方に変え、新しい自分をつくっていこうと、心理学の勉強を始めたのです。

 すると、まもなく北海道オープンで勝ち、広島オープンにも勝てたのです。全国的な大会で初めての優勝でした。

 その時「気をゆるめてはいけない」と自分に言い聞かせました。みなさんは「勝ってかぶとの緒を締めよ」ということわざを知っていますか。一度うまくいったからといって、そこで止まってはだめなんです。常に新しい目標を見つけて歩き続けたい。

 つらいことも多いでしょう。でも、だからいつか良いことがある。苦しくて休む時があってもいいけれど、休んで元気が出たら、また歩き出すことが大事だと思います。

 私の今の目標は、みんなにゴルフのすばらしさを知ってもらうことです。

 健康のありがたさ、自然を大切に思う心、あいさつや思いやりなどのマナーをゴルフを通して身につけてほしい。そのお手伝いをしたいと考えています。

 聞き手・編集委員 高橋孝一


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