マジシャン

北見マキさん
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 (1)かげにたくさんの道具

 (2)引っこみ思案が直った

 (3)文化祭では大スター

 (4)奇術は夢のかたまり
◆北見マキ略歴◆

 きたみ・まき 1940年、胆振管内豊浦町生まれ。本名は吉田省丘。室蘭商業高校を卒業後、65年にプロデビュー。たくさんのレパートリーを持つ実力派のマジシャンとして活やくしている。92年に文化庁の芸術祭賞を受賞。現在は日本奇術協会会長も務めている。東京在住。


(1)かげにたくさんの道具
 さあ、よく見ていてください。ここにあったはずのコインが、おや不思議、消えてしまいました!

 みなさんは、こんなマジックのステージを見たことがありますか? 帽子から花やハトが飛び出したり、トランプのカードを使うマジックもあるよね。私は、マジックを見せるプロのマジシャンです。ふだんは遊園地などでショーをしたり、東京の演芸場に出演しています。テレビに出たり、外国でショーをすることもあるよ。先月はオランダで開かれたマジックの国際会議に日本の代表として参加してきました。

 マジックや手品って、簡単そうに見えるでしょ。でもね、実際は、意外に大変です。ショーをするとき、よくびっくりされるのが道具の多さ。ステージではハンカチをかぶせていろいろな物をパッと消してしまうけど、消したものをしまっておく道具がいる。パッと出すための道具もいる。見た目は何もないようでも、かげにはたくさんの道具が必要なんです。

 私は、「プロ」というのは相手を楽しませなくてはいけないと思っています。ショーを見て、不思議だなというだけじゃなく、楽しかったな、おもしろかったなと思ってもらうこと。そのためには、どう見せたらお客さんを感動させられるか。いかに楽しませるか。それを考えながら、見えないところで地道な練習や仕こみが欠かせません。

 では、不器用な人はマジックはできないか。いいえ、そんなことはありません。確かに、手先が器用な人は覚えるのが早くて、すぐできるようになる。でもそれは、忘れるのも早いということなんです。不器用な人は、できるようになるまで時間がかかる。その代わり、くり返しくり返し練習したことは指先が覚えている。「体で覚えたことは忘れない」と言います。練習にまさる天才はありません。

 私は、高校時代に演劇やマジックに熱中し、その後、マジックのプロになりました。でも、実は、子供のころは引っこみ思案で、人前で何かをするのは苦手だったんです。その私がどうして変わったのか、それは次回にお話しましょう。


(2)引っこみ思案が直った
 私が生まれたのは噴火湾に面した胆振管内豊浦町。小さいころは、よく海で遊びました。いそでカラス貝をとって持って帰ると、おふくろが大きななべでゆがいてくれた。終戦直後で、食べ物がなくてね。私は泳げないんだけど、浅いいそでウニやナマコもとれました。

 冬の遊びはソリ。町の中の坂で、どこまですべれるか、競争です。そのころは車なんて走ってない。せいぜい馬ソリくらいだから「されよー」ってさけびながらすべる。「どけよ」って意味です。危ないからやめろなんて、だれも言わなかったなあ。

 きょうだいは、八つちがいの妹が一人。小学校は豊浦小です。四、五年生になると、いろいろ家の手伝いをしました。まきを割るのは子供の仕事。豊浦中に入ったころに父が店を始めて、その手伝いもするようになった。今でいう雑貨店だね。そのころは「よろず屋」と言いました。

 手伝いで店番をしたとき、店のバナナをこっそり食べたこともあったな。昔は、バナナは高級品でね。めったに食べられるものじゃないから、子供としては、食べたくて食べたくて。だれもいないときに一本とって一気に食べたら、胸につかえて、むせちゃった。

 そのころの私はシャイで、目立たないほうだった。人前に出ることはきらいで、泳げないし、歌もダメ。みんなで歌っても、私だけ音がちがって目立つの。学芸会では魚の役で、せりふはひとことだけだった。私のつり針を知らないかと聞かれて、「存じません」って。

 それが、中学を卒業するとき、謝恩会で何か出し物をすることになって、手品をやったんです。一生けんめい、本でやり方を覚えてね。水の中に卵を入れるとうき上がるとか、科学の実験みたいなものですよ。そうしたら、仲間がものすごく興味を持ってくれて、やってみせると、おお、おもしろいって感心する。私を尊敬の目で見るんです。そんなこと、初めてだった。

 かけっこもダメ、歌もダメだったのに、自分に何か人よりすごいものがある。そんな喜びを感じさせてくれたのがマジックだった。それをきっかけに、引っこみ思案の性格が直っていったんです。


(3)文化祭では大スター
 高校は室蘭商業に進んだので、朝は始発列車に乗り、豊浦から片道二時間かけて通学しました。授業が終わっても帰りの列車が夕方までなくて、教室でボーっとしていたら、演劇部が教室で練習していて、「どうせ待っているのなら入らないか」とさそわれたんです。入ったらおもしろくて、のめりこみました。

 それからの高校生活は部活動ひとすじ。朝、学校に着いたら、まず部室に行くんです。しばい作りや演技、大道具や小道具の作り方、全部そこで学んだ。それが今になって役立っています。夜は最終列車で豊浦に帰るんですが、時々寝過ごして、長万部で映画館をやっていた親せきのところにとめてもらいました。

 演劇をやりながら、マジックも好きで続けていました。手品の道具を売っていれば、すぐ買って、一晩で覚えて、教室でやるんです。こんなのできるよって見せるのが楽しみでね。三年生のときは演劇部の部長になって、文化祭では、しばいとマジック、司会もしました。もう、大スターでしたよ。

 中学三年の謝恩会で初めて人前に立った私が、次の三年間ですっかり人生が変わってしまった。人前に出るのが苦にならないどころか、逆に出たいというくらい。たぶん、人前に立って何かをする喜びを味わったことで、変わったんだね。

 私の経験から言えば、子供たちには、何でもいいから、やりたいということをやらせてあげてほしい。何か他人のできないことができたら、それがきっかけでのびていくこともある。将来の役に立つかどうかなんて、あまり言わないほうがいい。結果は、あとからついてくるものです。

 私は中学時代からマンガも好きでかいていました。こつこつかいて、「冒険王」などの雑誌に送りました。短いストーリー物とか、よく入選しましたよ。同じ名前が続くとまずいので、友だちの名前で出したりね。「そんな役にも立たないものを」とおこられるから、父には言わずにこっそりかいていて、雑誌にのっても見せなかった。そうしたら、あるとき、「何で見せないんだ」っておこられた。

 そのころ同じように雑誌にマンガを送っていた仲間で、文通をしたのが「山口六平太」の高井研一郎さん。しばらく後になって、初めて東京で会うことができました。


(4)奇術は夢のかたまり
 高校時代、室蘭から豊浦へ帰る列車で寝過ごしたときにとめてもらった長万部の親せきは映画館をやっていました。大きな劇場でね。夏休みなどに、よく遊びに行きました。機械室に入るのがおもしろくてね。どうやってフィルムが動くんだろうとか、そういうのがおもしろかったなあ。

 高校を出てから、本当は演劇やマジックの道に進みたかったんだけれど、どうやったらそういう世界に入れるのか分からない。とにかく親元をはなれたくて、航空自衛隊に入りました。三年間勤務して、静岡県の浜松市にいたときは市民芸能祭でマジックをひろうしました。

 除隊して北海道に帰ると、奇術用品の販売員を募集していて、応募したら、すぐ採用されました。道内のデパートなどを回って手品を実演し、道具を販売するんです。そんなに売れるもんじゃないから、苦しい生活でした。二十一歳のとき、販売元から東京に来るよう呼ばれました。そのころは、マジックのプロになりたいと思っていたから、商品を売るよりも自分の芸をみがきたいという気持ちでした。上京して、二十三歳でプロになりました。

 私は、マジックは夢のかたまりだと思うんです。アイデアを考えるときは、まず夢を考える。お金が出てきたらいいな。宝石や花が増えたらいいな。そんな夢があって、じゃあ、どうしたらいいか、トリックやテクニックを考える。そこから練習が始まります。

 試しにステージでやってみて、反応が良ければ、さらに完成させる。受けないと、がっくりして、もう一度練り直し。ひとつのマジックが完成するまで、早くても一年、長ければ一生かかるね。

 私は今、日本奇術協会の会長を務めています。若い人を育てたいと思い、東京・江戸川区の自宅には練習スタジオも作りました。みなさんも自分の道は自分で選び、選んだらやりとげるように努力してほしい。つらいこともあるけれど、とちゅうでやめたら、くいが残ります。

 私も夢のあるマジックのステージを続け、見る人を楽しませたいと思っています。

 聞き手・編集委員 森川潔


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