知床博物館長

中川元さん
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 (1)「動植物の不思議」感じて

 (2)仲間との遊びがすべて

 (3)好奇心であちこち旅行

 (4)自分の個性見つけよう
◆中川元さん略歴◆

 なかがわ・はじめ 1950年札幌市生まれ。北海道大学農学部を卒業。根室管内中標津町の役場に勤めた後、78年に網走管内斜里町の町立知床博物館学芸員となり、95年から館長。知床の自然保護や調査に力を入れ、92年に「知床賞」を受賞している。父の敏さん(故人)は札幌市円山動物園の園長を務めた。


(1)「動植物の不思議」感じて
 みなさんは「世界遺産」という言葉を知っていますか。すごく大切な自然環境や文化財を登録し、世界中の人が協力して次の世代に残していく活動のことです。

 北海道の東の端、オホーツク海に向かって突き出している国立公園の知床が「世界自然遺産」に推薦されることになりました。

 自然環境に優劣はありませんが、知床は日本にとって大事な国立公園であるばかりではなく、これからは世界のかけがえのない場所・財産として守っていかなければならないのです。

 知床は網走管内斜里町と根室管内羅臼町にまたがっており、私は斜里町立知床博物館の館長をしています。博物館では知床半島の自然や斜里の歴史の調査をしたり、集めた資料の展示をしたりしています。

 知床の素晴らしいところは、海にも陸にも自然本来の姿が残っていること。昔からの生き物がそろっていて、人の影響を受けずに生き物同士の関係を保っています。

 生物の世界が、食べるものと食べられるものの関係で成り立っていることを「食物連鎖」と言います。みなさんには、この食物連鎖の大切さを知ってほしいと思います。

 知床は流氷が来て海が凍る南限です。海はプランクトンが豊富で魚もたくさんおり、それを求めてさまざまな動物が集まり、海の生物の頂点にアザラシやトドがいます。

 海の資源とともに陸の自然も豊かで、サケやマスが川を上り、それを大型動物のヒグマやオオワシ、オジロワシ、シマフクロウなどが食べて生きる。日本ではほかに見られない知床の原始的な自然環境は、多様な野生生物が支えているのです。

 私が斜里町で暮らし始めてから二十五年になります。生まれたのは札幌市ですが、子どものころに比べて、札幌もずいぶん変わりました。でも、自然を身近に感じられる場所はまだたくさんあります。

 小中学生のみなさんは、自分の身の回りの自然に目を向けてほしい。もっと自然と接することで、得られるものが大きいと思っています。

 「何かおもしろいものはないかな」と、みんなはいつだって探しているでしょう。子どもたちはもともと好奇心が強いし、ひまな時間もあるはずです。身近な植物や動物、鳥の不思議さやおもしろさをいろいろと感じたうえで、大きな動物たちが見られる知床を訪ねてみてほしい、と望んでいます。


(2)仲間との遊びがすべて
 私は札幌で生まれ、大学時代までを過ごしました。

 小学校三年までは、今の中央区の円山市場に近いにぎやかな場所で暮らし、商店街の友だちといっしょに遊んでいました。小さくて、一人前に扱ってもらえない“みそっかす”だったけれど、上級生にくっついていろんなところに行きましたよ。

 中でも、発寒川はわくわくする遊び場でした。ぼくらの家からは四キロぐらい離れていたのに、山の手通をみんなで歩いて行き、カジカ釣りをしたり泳いだりします。リーダーは中学生や高校生です。

 あのころは、どこまで行って何をしようと、どこの親も文句を言ったり注意したりはしませんでしたね。

 家の近くには札幌神社(今の北海道神宮)や円山公園があり、小川でドジョウをすくったり、畑に囲まれた日新小学校のあたりまでトンギョ(トゲウオ)を取りに行きました。冬はスキー。カラス山と呼んでいた円山のふもとも、子どもにとっては立派なスキー場でした。ひまはたっぷりあるし、仲間と自然に接する機会がいっぱいあったのです。

 遊びがすべてでした。みんな、大きい子のやり方を見て遊びを覚え、小さな子の面倒も見た。近所のいろんな年齢の子が一緒に遊ぶ風景が今はありません。異年齢の遊び集団が失われているのは、とても残念に思います。

 小学三年の時に引っ越し、円山小学校から、新設の宮の森小に転校しました。家は三角山のふもとだったので周りは畑や原っぱばかり。友だちは少なくなったけれど、大木が茂る森や山があり、リスなどの動物もいました。虫捕りや釣りのほか、岩石好きの友だちと石ころ探しに行き、ハンマーで割ったりメノウを探したりした思い出もあります。

 一つのことにのめり込むような性格ではなかったので、いろんなことをやってみました。小中学生のころは、いつも自転車で走り回っていた気がします。

 行動力はあったのでしょう。室蘭に北海道で初めての青少年科学館ができたというので、中学一年の時、一人で汽車に乗り見に行ったことがあります。

 「科学館」という名前が新鮮で、あこがれました。時刻表を全部手帳に写して完ぺきな準備をし、わくわくする気持ちで急行「すずらん」に乗りました。煙がもくもくと立ち上る工場街は札幌では見られません。「すごいマチだ」とびっくりしたことを、今でもはっきり覚えています。


(3)好奇心であちこち旅行
 好奇心にかられ、物おじせずにどこにでも行ってみる性格は、小さいころ上級生について歩き回った経験が影響しているかもしれません。札幌市の向陵中学校の時には裁判の傍聴にこったことがあります。変わった子ですよね。

 社会の先生が「裁判はだれでもいつでも見られるんだ」と言うので、札幌地方裁判所に通いました。裁判所の裏口から入り、どんな罪の裁判をやっているのか、漢字も読めず内容も分からないのに法廷に入って傍聴席にすわる。すると、裁判官も弁護士も検察官もみんなぼくを見ます。でも裁判はオープンだから「出て行け」とは言われません。案外退屈で理解できないし、じきにやめてしまいましたが-。

 自転車で小樽まで三十キロ以上走り、あちこち見て回ったこともあります。知らないところに行ってみるのが好きでした。ですから鉄道も大好き。札幌西高時代は、夏休みや冬休みを利用して道東や道北に汽車の旅をしました。

 札幌から夜行列車に乗って釧路とか網走、稚内などを目指し、いろいろ乗り継いで札幌に戻るのです。寝泊まりは列車の中です。

 釧網線の釧路湿原の景色には感動しましたね。「これが北海道の広さか。こんなすごいところが日本にあるんだ」と圧倒されました。釧路からの夜行列車では、沿線が真っ赤な光景を見ました。大楽毛のあたりだったのでしょう。湿原に野火が走っていたんですね。あの時の驚きは今も忘れられません。

 地図をながめたり、切符を集めたりするのも趣味でした。北大生になったころまでは国鉄(今のJR)に入りたかった。ただ目が悪かったので、運転士じゃなく技術屋になるつもりで、工学部を目指していました。

 でも、大学紛争と公害問題のせいで、考えががらりと変わりました。大学紛争は、すべてを根源から考え直す運動でした。そこに工業社会の悪い面が、水俣病などの公害という形で表れた。ですから工学部志向は一気にしぼみ、環境や自然の方に目を向けるようになり、農学部で生物を学んだわけです。

 中学・高校時代から理科は好きでしたけど、いま専門にしている生物は一番きらいでした(笑い)。物理のように公式で割り切れる科目と違い、試験の前にはいっぱい覚えなきゃなりませんでしたから。でも大学では、多様で複雑な自然界の仕組みを解明していく生物学のおもしろさを知ることができました。


(4)自分の個性見つけよう
 工学部に進む目標を変え、農学部の農業生物学科で動物の生態などを学んだのですが、好きな汽車の旅は続けていました。卒業後は北海道に暮らし、北海道らしい仕事をしていきたかった。

 中でも根室管内の中標津や別海の風景にあこがれました。そのころ、周はじめという人が書いた「牧場の四季」という本にすごく感激しました。一九五○年代の根室原野の自然や牧場を、写真といっしょに紹介した本です。

 国鉄(今のJR)の標津線(廃止されてしまいました)で別海町の西別を訪ねた時、空の広さに感動しました。高い山も建物もなく、どっちを向いても空また空。見ているだけで豊かな気分になり「こういうところに住んでみたい」と思いました。そこで別海町に就職したいと手紙を出したのですが、大学卒は採らないと返事があり、お隣の中標津町役場に勤めることになったのです。

 中標津には五年いました。町営牧場で馬に乗って放牧牛を追ったり、酪農家を回る仕事は楽しかった。森林の中の町営牧場で暮らしたこともあり、そこにあった鳥獣保護施設で弱ったシマフクロウやオオワシの世話をしました。

 そのうちに、網走管内斜里町が町立博物館を造るため自然科学の学芸員を探しているという話を知りました。大好きな道東で、専門分野の仕事ができるのは願ってもない。そこで一九七八年の知床博物館開館の年から、学芸員として働き始めたわけです。

 学芸員は博物館や美術館で働く専門家です。地域の自然や歴史を調べて、多くの人にそれを伝える仕事です。

 知床博物館には小中学生が学習に訪れ、子ども向けの自然観察会や夏休みの体験講座なども開いています。

 私の子ども時代はものも少なく、みなが豊かさを目指した時代でした。豊かさが実現した今の時代、夢や生き方を見つけるのが昔より難しいかもしれません。でも世の中には楽しくワクワクするものもあふれている。子どもにはいろいろな可能性があります。好きなことをどんどんやったらいい。そして自分の個性や能力を見つけてほしい。大人は安全と健康を守ってやればいいのです。

 知床が世界遺産として評価される理由の一つは、生物の多様性です。多様性とは、すみ場所も役割も異なるいろいろな生物がそろっているということ。同じように人の社会にもいろいろな力が必要で、だれもが役に立つ場所がある。受験の記憶力といった一つの能力で評価してはいけない。一人ひとりの力や個性は必ずどこかで必要なのです。

 知床でも生物を調べる人、環境を守る人、訪ねてくる人を案内し、もてなす人。いろいろな人が集まって知床のために働いています。漁業や農業はもちろん、だれが欠けても困るのです。

 力を合わせて知床の素晴らしさを多くの人に伝えていきたいと思っています。

 聞き手・編集委員 高橋孝一


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