弥永北海道博物館長

弥永芳子さん
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 (1)職人の技にくぎづけ

 (2)銅貨もりっぱな道具

 (3)春にふいた「馬ふん風」

 (4)昔話をもっと聞いて
◆弥永芳子さん略歴◆

 やなが・よしこ 1919年、札幌市生まれ。40歳ごろから古銭の収集、研究を始め、その後、道内の砂金採取の歴史などを続ける。弥永北海道博物館(同市北区北19西4)は1985年開館。収蔵品は9万点という。著書に「北海道の砂金と砂白金」など。


(1)職人の技にくぎづけ
 みなさんは博物館に入ったことがあるでしょう。化石や土器、昔の人が使った道具が並んでいて、学校の理科や社会科の勉強に役立ちますね。私は札幌市北区にある弥永北海道博物館の館長です。博物館はほとんどが国や北海道、市町村が建てて運営していますが、ここは私が五十年近く前から集めたものを展示した個人の博物館です。

 展示しているのは化石、美術品など私が興味を持った分野のもの。中でも古い時代のお金や、昔の人が川の中からとった砂金の資料には、ほかにはないものもあり、見に来た子供たちも「へー、こんな変わったお金があったんだ」「砂金がこんなにきれいだなんて」と感心したり、おどろいたりします。

 私が生まれたのは一九一九年(大正八年)で今、八十四歳です。みなさんのおばあさん、おじいさんが生まれるより前かもしれませんね。家は札幌市を流れる豊平川に近い製材所で、木の箱を作るのが仕事でした。リンゴ箱、タマネギ箱、新巻きサケを入れる箱など、今では段ボールになりましたが、私が小学生のころ(二○年代)は全部、木でできていました。

 夏の終わりから秋にかけて工場がいそがしい時期は、工場の中に十人ほどの職人さんが並び、まえかけのポケットからくぎをひとつかみ取り出して口の中に入れるんです。そして一本ずつ取り出しては、金づちで板に打ちつけ、箱を作っていました。職人さんの口のまわりは鉄の色でまっ黒。一本のくぎを金づち二回で打ち終えるはやわざに見とれていたことを覚えています。

 古いお金や化石を集めだしたのはおとなになってからですが、自分が知らないこと、できないことへの興味とあこがれはそのころからあったのでしょう。

 工場には電気で動く丸いノコギリがあり、父が「危ないから」と言って手伝いはさせてもらえませんでした。ただ、できた箱を届ける時について行ったことはありました。

 うどんを作る会社に行った時のことです。できたばかりの長いうどんがさおにかけて干してありました。かわくと両はし、さおにかかっていた丸い部分を切り落として捨てるのですが、私が行くと大きな紙ぶくろに入れてくれるのです。もちろん食べられるし、味も同じ。おなかいっぱいになった思い出があります。


(2)銅貨もりっぱな道具
 私が古いお金を集め始めたのは四十歳ぐらいの時、札幌市のデパートにあった古銭と切手の売り場で二銭銅貨を見て「なつかしいなあ」と思ったのがきっかけです。小学生だった大正末から昭和の初め(一九二○年代後半)に使われており、今の五百円玉より大きい銅貨でした。

 みなさんは「銭」というお金の単位を知らないでしょう。みなさんのおとうさん、おかあさんも使ったことはないと思います。一銭は一円の百分の一ですが、そのころはとうふ一丁、キャラメル一箱が五銭ぐらいだったから、二銭銅貨は今の百円玉と同じ値うちがありました。

 私がその銅貨を見てなつかしいと感じたのは、お金以外の使い方をしていたからなんです。

 冬が近づくとたくさんダイコンやハクサイの漬物を作るのは知っていますね。私の家も寒くなり始めると大きなたるにダイコンやウリをつけていましたが、その時、ウリの中の種を取るのにちょうどいい大きさと形をしていました。銅貨の丸いはしを種がある部分におしあててけずり取るのです。銅貨はものを買うだけでなく、りっぱな道具でもあったのですね。

 そんな昔ですから、五十銭といえば子供には大金でした。でも、私はその大金をなくしたことがあります。小学校二、三年のころ、お年玉で五十銭銀貨をもらって買い物に出た時、積もった雪の中に落としてしまったのです。

 おとななら雪の上にあいた穴を探せば見つかったはずですが、私はすっかりあわててしまい、落とした場所の雪を素手でかき分けるだけ。今の百円玉ほどの大きさですから見つけられるはずもなく、泣きながら家に帰ったことを覚えています。

 私の博物館には大昔の貨へいから現在使われているお金まで、硬貨(金属などでできたお金)、紙へい(紙のお金)をたくさん展示しています。金や陶器でできた硬貨、日本のごく一部でしか使わなかった紙へいなど、めずらしいお金もあります。

 お金はものを買うのはもちろん、国の予算や貿易の基本になる大事な役割があります。お金の歴史を知ることで、その大切さを勉強してもらえれば、と思っています。


(3)春にふいた「馬ふん風」
 私が子供だったころの札幌の様子をお話ししましょう。といっても七十年以上前のこと。みさなんの両親も「へぇー」とおどろくでしょうね。

 そのころの札幌市は木造の建物が多く、三階以上ある高い建物はめずらしかったんです。私の家の近くにあった豊平川の一条橋から南一条通りをほぼまっすぐ西に、円山公園まで路面電車が走っていて、窓から外を見るとかなり遠くまで見通せました。

 道庁の赤れんが、洋館づくりの札幌駅、今の札幌市民会館の場所にあった豊平館なども目に入りましたね。デパートの丸井今井札幌本店(一九一六年開店)も三階建てのりっぱな石づくりで、両親といっしょに電車で行きました。

 ただ、当時は土足では入れなかったんです。入場する時はゆかに張ってあるタイルがよごれては困るというので、入り口でくつカバーをもらい、どろが落ちないようにしていたのです。

 くつにどろがつく時代です。中心部を一歩はなれると、舗装した道路は少なかったですね。自動車もあまり見かけず、遠くに行くには電車や自転車、馬車などに乗りましたが、雨が降ると舗装していない道は水たまりができ、どろどろになりました。私の友だちが小学校の入学式で、晴れ着を着たままころび、どろだらけになって泣きじゃくっていたこともありました。

 四、五月になると「馬ふん風」がふきました。乗り物や輸送に使っていた馬のふんがかわいて、春風でまい上がるのです。春はとても待ち遠しいのですが、空気が少し黄色かったり、におったりするのはいやな気がしたものです。

 おしりに布のふくろをさげて、ふんが地面に落ちないように工夫した馬もいましたが、あまり効果はなく、馬ふん風がなくなったのはずっと後になってからです。

 道を見ていて、今とちがうのは、子供の姿が少なくなったことです。そのころは道路は公園や運動場と同じで、おにごっこやなわとびをする場所でした。自動車が増え、危なくなったからしかたないのでしょうが、私は残念だなと思います。


(4)昔話をもっと聞いて
 昔の銭湯の話をしましょう。実は七十年ほど前、私が小学校六年の時、父が製材所をやめて札幌市中央区の山鼻で銭湯を始めたのです。建物が赤いれんがでできていて、お客さんに「れんが湯」と呼ばれ、親しまれていました。

 今はみなさんのほとんどが、家の中にお風呂があるでしょう。でも当時はお風呂のある家のほうがめずらしかったので、みんな近所の銭湯に手ぬぐいやせっけんを持って入浴に行くのがふつうでした。入浴代はそのころ五銭だったから、今の数百円でしょうか。お金をもらう番台という場所に母がいて、私も母が食事をとる間、代わりにすわっていました。

 営業は朝六時から。そんなに早く始めてどうするのかと思うでしょうが、そのころは近くの商店の人が商売を始める前に、先を争って入りに来ました。夜は午後八時ごろ、夕食のあと始末を終えたお母さんたちが、その後、会社に勤めている人たちが入りに来たので、夜中の十二時まで営業していました。

 お客さんの中には熱い湯が好きな人と、ぬるい湯でないとだめな人がいて時々、言い争いになり、石炭を燃やすかまで湯をわかしていた父はそのたびに困った顔をしていましたよ。みんな入浴するだけでなく、脱衣場に置いてあった蓄音機で音楽をきいたり、湯船の中で親しい人同士で話しこんだり、お風呂屋さんに来るのを楽しみにしている様子でした。

 私が子供だった大正末から昭和の初めごろの話をしてきました。七十年以上前のことだから、みなさんは今とずいぶんちがうなと思ったでしょう。もし、昔の話に興味を持ったら二つのことをやってみてはどうでしょう。一つは博物館や、近くの郷土資料館に行ってみること。遊ぶ道具や日用品など今とずいぶんちがった品物が展示してあるはずです。

 もう一つはおじいさん、おばあさんに昔のくらしの様子を聞くことです。テレビゲームやハンバーガーなどなかった時代に、どんな遊びをしたか、何を食べたのか。「へぇー」と感じる話がたくさん聞けると思います。おじいさん、おばあさんも喜んで語ってくれるでしょう。

 聞き手・編集委員 斉藤紳一


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