エベレスト最高齢登頂者

三浦雄一郎さん
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 (1)ひ弱で落ちこぼれ

 (2)お城の坂 夢中で滑降

 (3)父の教え「習うより慣れろ」

 (4)獣医辞め冒険への道に
◆三浦さん略歴◆

 みうら・ゆういちろう 北大獣医学部の研究室助手を経てプロスキーヤーに。富士山直滑降をはじめ世界七大陸最高峰の滑降を達成した。昨年、99歳の父敬三さん、長男雄大さんと親子3代でフランス・モンブラン氷河の滑降に成功。70歳で世界最高峰のエベレスト(中国名チョモランマ、8850メートル)に登って最高齢登頂記録を塗り替えた。


(1)ひ弱で落ちこぼれ
 人類の歴史はぼう険や探検の歴史ともいわれています。失敗してもあきらめず、夢にちょう戦する。やりとげるため、厳しい修業を積む。そうした気持ちが必要ではないでしょうか。

 ぼくは一九三二年(昭和七年)十月十二日、青森市で生まれました。コロンブスがアメリカ大陸を発見したのと同じ日です。

 小さいころは、親の期待に反して、とてもひ弱だったようです。仙台市に移り、小学校四年のころは入院などで半分しか学校に行けなかった。父敬三も若いころに胸の病気にかかり、母むつもあまりじょうぶな方ではなかったんです。

 公務員のおやじの転勤で転校も多く、数えてみると、青森、弘前、仙台など小学校を五回、旧制中学も弘前、東京など四回も替わっているんです。

 転校のたびに新しい仲間ができ、友と自然にとけ込んで遊ぶ。そんななか、人力車が来て連れて行かれた先が幼稚園でした。当時、国会議員だった祖父の発案だったらしい。人力車で幼稚園に通う子なんていません。いやでいやで逃げ回った。迎えが来る前に、海などへ出かけてしまうんです。

 そのうち、家族もあきらめ、行かなくなりました。一年も通ったかな。幼稚園というところは今度はこれ、次はあれ、と集中できないうちに終わってしまう。こうして幼稚園を中退。その後、岩手で中学を受験しました。身体検査で病気のことを聞かれ、いやな予感が的中して落ちてしまいました。翌年には入りましたが、幼稚園の中退、中学受験失敗と、いわば落ちこぼれだったんです。

 考えてみると、ぼくの人生はざ折のくり返し。スキーのオリンピック選手、南極隊員、アメリカ留学、大学教授。そうした夢が、つかみかけてはシャボン玉のように消えていったんです。でも、失敗しても何か、世界が自分を待っているという感じ。落ちこぼれでも、きっかけさえつかみ、努力さえすれば、できることがある。世界のいろんな人たちと出会う。こうした気持ちがだんだん強くなっていったんです。


(2)お城の坂 夢中で滑降
 生まれ、育った本州は雪の少ないところもあったので、雪が待ち遠しかった。スキーとの出合いは小学校二年生のころだったかな。営林局に勤めるおやじの転勤で青森市から弘前市の小学校に転校。家が弘前城公園のお堀のすぐそばで、雪が降ると、お城の坂をスキーですべるんです。おやじも勤めが終わって公園の電灯の下でスキーの練習に励んでいました。

 そのうち、おやじの仲間でスキークラブができ、雪が降ってお堀の水がこおると、みんな夢中ですべりました。ぼくも急斜面の石がきを登っては氷におおわれた、お堀目がけて何度も滑降の練習をしました。距離の短い坂ですが、このおかげで本物の大きなスキー場もなだらかに感じ、楽にすべることができました。

 中学時代に、先生からオリンピックの滑降選手がすごいスピードを出したと聞かされ、興奮したのを覚えています。いつか自分も、と思ったりしました。その後、ぼくが世界プロ・スキーレーサー協会の大会などで世界記録を出すようになり、パラシュートをつけて富士山頂から直滑降に成功、エベレストやマッキンリー、ヒマラヤなど、世界の大きな氷の山をすべった時も石がきのことがいつも頭にうかびました。

 最初の競技スキーも小学校二年のころ。全校の大会で何人もの選手がいっせいにかけ出し、コースにおし合いへし合いし、すっかりやる気をなくしてしまいました。こんなのスキーじゃない。自由で楽しいスキーが競争になると、人をおしのけ、つきたおしてあわてふためく。性に合わないと思いました。

 おやじの転勤で東京、青森と移り、青森中学では岩木山で開かれた滑降大会の少年組で優勝したのが初のタイトル。その後、弘前高校で全日本選手権の滑降で入賞、高校スキー選手権で三年連続で県で個人優勝しました。借り物のスキーで初めて飛んだジャンプで県の二位に入ったこともあるんです。でも、わが弘前高校がスキーの強い東奥義塾高校をおさえて逆転優勝したことが、あざやかな記憶として残っています。

 オリンピック銀メダルの猪谷千春さんがいますね。猪谷さんは子どものころ、お父さんに厳しくスキーを仕こまれたそうです。つまり、スキーでいじめられたから、もう見るのもいや。メダルを取ったらスキーとおさらばだったというんです。

 ぼくはその反対。雪もスキーも大好きで、まだまだ挑戦したい。今度は北京五輪が開かれる二○○八年にエベレスト(中国名チョモランマ)の頂上からすべってみたいですね。


(3)父の教え「習うより慣れろ」
 今年百歳になった父敬三は北大を出て故郷青森の営林局に勤めた貧乏役人でした。ただ、学生時代からスーパー・スポーツマン。陸上チャンピオン、水泳、テニス、スキーもこなす、なんでも屋だったんです。おまけに山岳写真もプロ級。音楽も趣味にして二階の部屋に蓄音機やレコードを置いて仲間を集めては聴いていました。

 あまり家にいませんでしたが、家庭教師つきで勉強を始め、体調をくずしかけたぼくを見て、これはいかん、と休みの日などにスキーに連れ出すようになったんです。ぼくにスキーを教えたことなど一度もないといっていますが、やり方はこうです。

 だれも滑ったことのない、急斜面を探して登っていく。ぼくも必死でついていく。すると、雪質を調べるためストックで二、三度雪をつついたかと思うと、忍者のようにサーッと滑り降りていくんです。はるか下で止まると、ストックを振って下りて来い、と合図する。深い雪に引っかかって転ぶぼくに、何を教えるでもなく再び、えっさえっさと登ってサーッと滑っていく。習うより慣れろです。こうしてぼくも、深い雪をこなせるようになりました。

 学校で落ちこぼれ、病み上がりのぼくを、おやじはこうやって認めてくれ、地元の大学生グループに交じって蔵王へ行ったり、へとへとになりながらも山々を縦走できるまでになりました。

 母むつはお手伝いを連れて嫁に来た箱入り娘で、家事もあまり得意ではなかったんです。しかし、貧乏役人のおやじを陰で支えたスケールの大きい肝っ玉母さんでした。物事の本質を見抜く人でした。

 中学受験に失敗して引きこもるぼくを見て、「あんたのおじいちゃんは国会議員を落選したら、四年はがまんしなきゃならない。だから受験に一度、失敗したくらいでくよくよしなさんな。やる時に命がけでやればいい」というんです。そして大学受験で必死に勉強するぼくに、今度は「そんなに勉強ばかりしてどうすんの。歌手でも、俳優でもなればいいじゃないの。大学だけが人生じゃないんだから」というんです。

 この親、一体何考えてんだろうと思いましたね。そういわれると、足も短いし、顔も良くない、歌はへたなので歌手はむり。あとは勉強しかないと思うようになったんです。ぼくも、長女の恵美里に勉強なんかしなくていい、と同じことを言ったようです。そういわれて彼女はやる気に目覚め、友だちの家でひそかに勉強したそうです。

 親子は尊敬されるより、まず仲良くなることが大事じゃないかな。子どもの側も、好きな相手でないと、意見されても聞きたくない。もし、好きな人から言われれば、じゃあ少しやってみるかという気になる。こういう点で、やはり家庭教育が大切。それが原点だと思います。


(4)獣医辞め冒険への道に
 かわいいペットの仕事ができる獣医師になりたい人が増えているようですね。動物をあつかう、この仕事をぼくもしたことがあるんです。

 青森生まれのぼくは、おやじと同じ北海道大学出身。二人の弟も北大に行きました。なぜ北大か。それはスキーができるからです。ボーイズ・ビー・アンビシャス(少年よ大志をいだけ)というクラーク博士のことばも頭にありました。

 一九五二年(昭和二十七年)、どうせ受験で行くのなら、とスキーをかついで札幌にきました。入試にすべる、は禁物ですが、札幌に着いたその日から藻岩山にスキーに出かけたんです。もう来れないかもしれないとすべりまくって受験本番。ところが、落ちると思った試験に受かったんです。

 大学はスキー部で、合宿所暮らしが長かった。手稲山で合宿したこともある、当時の北大の学長秘書の朋子と結婚。その後も無意根山、空沼岳などいろんな山に行きました。

 ゆくゆくは大学院、そしてアメリカ留学をという夢をえがき、すばらしい先生たちのもとで勉強しました。実験もめちゃくちゃおもしろい。卒業の時に新しい研究室ができることになり、その助手にならないかとさそわれ、いくことに決めました。ところが、研究室にねとまりしてスキーを続けるうちに無理がたたり再び体調をくずしたのです。肺のリンパ節の病気でした。

 自分が大学の先生に向いていないとなやみ、このままでは海外に行く夢もかなえられない、とやめることにしました。助手をやめて少しの間、札幌・月寒にあった当時の農事試験場でブタやウシをあつかう獣医師をしていたんですよ。

 でも、ぼくにはスキーと海外への夢がまた、ふくらんできました。人がやったことがない数多くの冒険や記録への挑戦が始まり、ヨーロッパのモンブランでおやじや子どもと親子三代でスキーですべったり、自分の限界にいどんだりする毎日が続いています。

 スポーツは人間をしつける原点でもあります。時に、つらいこともがまんしなきゃいけない。その点、北大には、あまり人を型にはめない良さがありました。すばらしい仲間にもめぐまれた。だからこそ、北海道に住む決心をしたのかもしれません。

 いまスキー人口が減り子どもをふくめ、あらゆる面で「外遊び」がなくなっています。札幌の学校でスキー授業をやめるという話もあります。しかし、すぐれた環境を生かさない、これほどもったいない話はありません。

 コンピューターで有名なマイクロソフト社のビル・ゲイツはオリンピック選手と同じくらいスキーが上手で、スキー場に自宅を持っています。

 自分の本業以外で、すばらしい人生を送る世界のリーダーはたくさんいます。集中の仕方を覚えれば、勉強だって何だっておもしろくなる。限界をこえてなお、あきずにやる。これを続ければ、その人はどの分野でも一流になれます。

 聞き手・編集委員 大井一樹


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