書家

樋口雅山房さん
トップに戻る
 (1)父の字にひかれ筆にぎる

 (2)美の世界の広さを知る

 (3)高校の書の先生から影響

 (4)大切な文化 興味持って
◆樋口さん略歴◆

 ひぐち・がざんぼう 1941年札幌市中央区生まれ。本名・悌右。小学一年から書を始め、札幌東高校時代、書家・加納守拙の指導を受ける。大学進学で上京後、ファッションデザイナー山本寛斎、音楽家宇崎竜童ら幅広いアーティストと活動する。89年、札幌にもどり、医薬品店経営のかたわら、絵画的な書や大きな筆を駆使した作品を発表している。


 (1)父の字にひかれ筆にぎる
 私が展覧会に出す作品を書く時には、直径二十センチの太い筆を使うことがあります。バケツに入れた墨をたっぷりつけると重さは十キロほど。畳より大きい紙に「遊」「風」「竹」などの漢字を、体全体を使って一気に書き上げます。みなさんが学校で習うきちっとした字ではありません。太くて見慣れない絵のようにも見える書です。

 私が書道を習い始めたのは一九四八年、札幌市中央区の東小学校(現在の中央小)に入ってからです。もちろんそのころは、ふつうの字を書いていましたよ。

 実は入学前から漢字とつながりが深かったのです。父は札幌市中央区南一東三で薬の販売をしていました。正式な書道の指導を受けたことはありませんでしたが、毛筆が得意で母の手紙もさらさらと代筆するほどのうで前でした。

 特に思い出に残っているのは、父が店先に張り出す紙に薬の名前を筆で黒々と書いていた場面です。当時はまだ印刷したポスターや看板はなく、宣伝のため薬の名前を紙に大きく書き、店先に張ってポスターの代わりにしていました。

 店は漢方薬を多くあつかっていたので「玄妙」「乾坤」というむずかしい薬の名前があって、意味は分からなかったのですが、字の形や筆の動きに心をひかれました。

 当時は字を書くのに鉛筆やペンを使うのがふつうになった時期です。でも、父をはじめ毛筆が得意な人はまだたくさんいて、書道は習い事の中でそろばんとともに一番の人気でした。私が小学一年から入った塾もにぎやかで、通っていた日曜日朝の教室だけで五十人ほど、塾全体では二百人以上の子供がいました。

 ただ、第二次大戦が終わって間もないころで、食料や物がない時代。私が小学校で最初に書いた字もひらがなの「いも」です。紙は黄色っぽくて質の悪い半紙でした。小学校の建物もすきま風がふき込み、冬は寒くて墨をすると、うすい氷がすずりの表面に張って、じゃりじゃりした墨で字を書いたこともありましたね。

 同じころ習い始めたそろばんはすぐにやめてしまいました。でも今まで筆を手放したことはありません。幼いころ父が書いていた字に、何かひかれるものがあったにちがいないと思います。


(2)美の世界の広さを知る
 私が生まれたのは太平洋戦争が始まった一九四一年で、戦争の記憶はほとんどありません。ただ、敗戦後の食料不足だった時代はよく覚えています。当時、食べ物は決まった量しか配られず、四人きょうだいだった私たち子供が食べるには足りません。

 そこで、父は江別に畑を借り、トウモロコシ、カボチャ、ソバなどを作っていました。私も自転車にいっしょに乗って一カ月に一、二度、札幌市中央区の薬店から十数キロを行き来していました。まだ幼くて畑仕事は手伝わなかったのですが、父があせを流すのを見て、「男が働くというのはこういうことなんだ」と思っていました。

 小学一年から本格的に始めた書道は三、四年にはだいぶ上達し、父の薬店に張り出すポスターを書く手伝いを始めました。担任の先生も「私よりあなたの字が上手なんだからがんばって」とほめてくれました。自分では「うまい」という実感はなかったのですが…。

 小学五年だったかな、書や絵画の見方が大きく変わるできごとがありました。それまでは文字は手本通りに書き、絵は見たままを描くと思いこんでいたし、そういう作品に良い成績がついていました。

 ところが、新しく担任になった先生は美術が得意で、少し下手だなと思う絵を「気持ちがこもっている」「個性があっておもしろい」と、高く評価したのです。美の世界は広いなあと思いました。学校の写生では、それまで使っていた画用紙の二倍もある大きな紙を用意し、自由に描かせてくれました。

 悪さをすると、げんこつで頭をたたくこわい先生でしたが、私や友だちは大好きになり、絵もますます好きになりました。先生が描いた風景画が美術展に入選した時はどこの風景だろう、とみんなで話し合い、描いた場所が分かると友だちといっしょに出かけ、画家になった気分で写生したものです。

 私は幼いころ、泣き虫で年上の子にいじめられたこともありましたが、小学生時代はどこにでもいるふつうの子供でした。もし、ちがうところがあったとすれば、毎日のように書道展や美術展を見に行ったことでしょう。そこにいる大人が、芸術について語り合う姿は、体を動かし、あせを流して働く人とは別世界の人たちに見えました。


(3)高校の書の先生から影響
 小学三年ごろから書を作品展に出品し、入選とか佳作によく入りました。中学時代には画廊がある文ぼう具店にどんな半紙や墨が置いてあるか、全部覚えてしまうほど熱心に店を回ったものです。塾でも中学二年で師範になり、手本を書いたり、専門書を興味深く見たりするようになりました。

 書道をずっとやりたい、と思ったのは一九五七年、札幌東高校に進み、道内の書道のリーダーの一人だった加納守拙という先生にめぐり合ってからです。入学して最初の書道の授業は今でも忘れられません。

 加納先生は、教室に入ってくるといきなり「森羅万象悉師」と、黒板に書いて「山を見なさい。木や草を見なさい。この言葉がわかればきょうの授業は終わり!」と言い残して、教室をさっさと出て行ったのです。

 この言葉は「世界にあるすべてのものが、いろんなことを教えてくれる先生(師)だ」という意味ですが、それは大人になって知ったこと。その時は読み方も分からず、ただ「変わった先生だな」と思うだけでした。

 その後の授業もおどろくことばかりでした。その日の課題の字を黒板に書いておき、教室に来るのは授業時間の後半三十分ほど。「ちゃんとやっているか」と、たばこをふかしながら私たちが書いた習字を見るだけです。また、教室のつくえの上でいびきをかいてねむることもありました。校長先生が見回りに来ても起きません。私たち生徒の方が青ざめてしまいました。

 変なだけの先生なら私も影響を受けることはなかったでしょう。しかし、加納先生は中国、日本の古いりっぱな書を研究し、その上で自分の気持ちや心の動きを書にする芸術家だったのです。

 漢字はもともと、絵から発達した文字と言っていいでしょう。私は今、漢字であり、絵のようにも見える字を書いています。

 そのきっかけは書道部の顧問だった加納先生に出会い、正座して手本に似せて書く文字から、体全体を使って躍動感やリズムを文字にする作風に変化していったからでしょう。先生の指導が大きな転機になったのはまちがいありません。


(4)大切な文化 興味持って
 一九五九年に札幌東高校を卒業し、東京の大学に入学した後も、大きな紙に大きな筆で字を書き続けました。書のグループの作品展や、いろいろな書道展に出品し、何度も賞を受けました。

 八○年ごろ、世界的なファッションデザイナーの山本寛斎さんが私の書を見て気に入ってくれたのでしょう、「服のデザインにあなたの書を使いたいのです」と言ってきました。私が書いた漢字が、山本さんの服にプリントされ、ファッションショーに登場するのを見て、文字が持つ力や躍動感はみんなに通じるのだなあと、あらためて感じたものです。

 八九年に薬店をつぐために札幌にもどりましたが、東京をはなれたもう一つの理由は「北海道だからできる芸術、書ける書がある」と考えたからです。今も子供のころからめざしていた生命力のある字にもっと近づこうとがんばっています。

 毎週金曜日、札幌市白石区にある私の家に小学生十人ほどが集まります。もちろん、みんなが学校で習うような字を教えているのですが、実はみんなの書いた字に教えられるのです。知識や技術が身についていない分、体の動きや筆の運びが自然で、うで前に関係なく素直で力強さがあります。

 何より書く時の集中力がすごいですね。人の心を動かす字は、上手下手ではないのです。

 最近、心配なことがあります。みんなが漢字を知らなくなったことと、毛筆からはなれがちになったことです。漢字は三千、四千年の歴史を持つ大切な文化です。たとえば「山」でも「川」でもかまいません。漢字の意味や成り立ちを説明した「漢和辞典」で調べてみましょう。昔はどんな形をしていたのか、どう読むのか、どんな意味があるのかを知ると、きっと漢字に興味がわくでしょう。

 漢字を覚えるには、やはり自分で書くのが一番。字を書くのにパソコンを使う人が増えましたが、活字は情報を伝えるための個性のない文字です。上手でなくてもかまいません。白い半紙に黒々と書くことで、漢字の持つ美しさ、生命力に感動するにちがいありません。

聞き手・編集委員 斉藤紳一


戻 る