アニメ作家

向中野義雄さん
トップに戻る
 (1)1本のアニメがきっかけ

 (2)人生変えた「白蛇伝」

 (3)東京に進学し、絵の勉強

 (4)北海道の人材育てたい
◆向中野さん略歴◆

 むかいなかの・よしお 1944年芦別市生まれ。東映動画につとめるなどした後、アニメスタジオ座円洞(東京、札幌)を設立し、代表に。アニメ作家として「魚が空を飛んだよ」「土を喰らう」「サムシング・グレイト」などの作品を制作している。漫画家としても「日本の歴史」など、著書多数。札幌在住。


(1)1本のアニメがきっかけ
 みなさん、アニメを見るのが好きでしょう。だけど、作るのはもっとおもしろいよ。

 私はいま、札幌と東京にアニメスタジオを持っていて「忍たま乱太郎」などたくさんのテレビアニメを作ってきたけど、やはり自分でストーリーを考えて作品を作るときが一番楽しいね。今年は、老人の問題をあつかった長編アニメ「サムシング・グレイト−地図にない町−」を完成させました。近くで上映会があったらぜひ見てください。

 この世界に入ったのは、子供のころ見た一本のアニメがきっかけでした。

 生まれ育ったのは芦別市です。五人きょうだいの長男。近くの山に登ったり川に行ったり、外でよく遊びました。そのころの子供はみんなそうですよ。チャンバラなんかもよくやったね。

 周りの人は子供のころの私は「おとなしかった」と言うんだけど、私自身は心の中では常に燃えていたんです(笑い)。何にでも興味を持つ子供でね、学校の帰り、駅にある機関車をずっとながめていたり、どこかの家から聞こえて来る三味線の音をあきずに聞いていたり。まっすぐ帰ってこないんです。

 もちろん漫画は大好きでした。あのころの漫画雑誌は月刊で、「冒険王」なんかを毎月買ってもらっていました。弟や友達とちがう漫画雑誌を買い、交かんして熱心に読みましたね。今でも印象に残っているのは、「11ぴきのねこ」シリーズで有名な馬場のぼるさんや、柔道漫画「イガグリくん」で人気だった福井英一さんらでしょうか。みなさんはあまり知らないかもしれませんね。

 漫画雑誌にはキャラクターの似顔絵投稿があって、じょうずな絵は雑誌にのり景品のバッジをもらえました。小学四、五年のころは、それを集めるのに熱中しましたよ。絵はたびたびのって、バッジもかなりの数になりました。

 漫画に熱中することに両親は何も注意はしなかったから、理解はあったんでしょうね。だけど、中学校に行くと不思議と漫画をぴたっと読まなくなり、文学に興味を持ち始めました。中一の時の担任が国語の先生だったえいきょうかもしれません。

 ところが、漫画ばなれしていた中学生時代に、私は東映動画《現在の東映アニメーション》が作った長編漫画映画「白蛇伝」と出合ったんです。


(2)人生変えた「白蛇伝」
 芦別の中学生時代に見た東映動画(現・東映アニメーション)の「白蛇伝」には興奮しましたね。このころはアニメ映画ではなく、漫画映画と呼ばれていましたけど。白蛇伝は、学校の行事で映画館に行き、見ました。感激しましたねえ。漫画が動くだけじゃなくて、カラーで、音が出る。しかも、音楽も流れる。すごく引きつけられました。

 それまでも、ディズニー・アニメのミッキーマウスの短編などを何度か見たことはありました。こちらは映画館ではなくて、夜、広場に大きな白い幕を張って映したのを見ました。ディズニーもすごいと思いましたけど、白蛇伝が衝撃的だったのは、日本でもこれだけのものが作れるのかというおどろきがあったんですね。先生に聞いたら「東映が東洋一のアニメのスタジオを作ったんだ」と教えてくれました。

 当時の東映の社長が「ディズニーに負けるな」と、一九五六年、アニメ制作会社の東映動画をつくったんです。その最初の長編作品が白蛇伝で、五八年に公開されました。日本で初めてのカラー長編アニメだったんだ。

 白蛇の化身の女性と人間の青年の恋愛物語です。新人だった女優の佐久間良子さんが主役の女性と同じ服装で演技をしたものをさつえいし、それを参考にアニメにするという手法も使われています。

 街角にはられた白蛇伝のポスターがほしくてほしくて、何度もぬすんじゃおうかと思いましたよ。結局、ぬすみませんでしたけど《笑い》。

 白蛇伝で人生が変わりました。だって、これを見て、自分も東映動画に入るんだって決めちゃいましたから。周りからはおとなしいとみられていたけど、心の中はがんがん燃えているタイプだと前に話したでしょ。こうと決めたら、がーっと行ってしまうところがあって、この時も、絶対東映動画に入社するんだ、そのためには、どうしたらいいんだと一生けん命に考えましたよ。

 その時、どうやって漫画映画ができるのかもよく分からなかったんです。まだテレビでアニメも放映されていない時代ですからね。とにかく、今までのように投稿しているだけじゃだめだ。本格的に絵の勉強もしなくてはいけないだろう。それで、まずは漫画家に弟子入りするのがいいと考えてね、当時デビュー間もなかった漫画家の影丸譲也さんに手紙を書いたんです。「弟子にしてください!」って。


(3)東京に進学し、絵の勉強
 弟子入りしたいと手紙を出した漫画家の影丸譲也さんは、デビュー間もないころでしたが、社会性のあるテーマを書いていたのでひかれていたんです。だけど、返事は「せめて高校を卒業するように」と断りの手紙でした。がっかりしました。それで、じゃあ高校に進学しようと。だけど、私はあきらめない性格なんですね。進学するけど、地元の芦別などではなく東京の高校に行くことにしたんです。東京で絵の勉強がしたいと考えたんです。

 私の父は私が小学五年の時に病気でなくなっており、札幌に住む母の弟が父親代わりで相談にのってもらっていました。そのおじに「東京進学」をたのみこみました。おじは反対しましたが、ねばりにねばって、ついにおじの力ぞえもあって東京・中野にあった技術系の高校に進学が決まりました。

 母は最後まで賛成してくれなかったけど、言い出したら聞かない私の性格を知ってか、半ばあきらめていたようです。父がなくなってからは母と私より三つ上の姉が働き家計を支えていて、とても大変なころでした。長男としては心苦しいところもありましたけど、自分の夢のことで頭がいっぱいでした。

 その分、東京に行ってからは一生けん命、絵の勉強をしましたよ。授業の後、アルバイトしながら、絵画教室に通い、友人たちとよく上野公園などにスケッチに出かけました。いろいろな友人に出会い、ジャズ音楽を知るなど多くの知識を吸収できた楽しい時期でした。絵の力も着実についたようで、絵画教室の先生に美術大学に進んだ方がいいと言われたこともあります。

 私は東映動画(今の東映アニメーション)の入社試験を待ち続けました。上京して三、四年たったころ、ようやく試験があったんです。会場へ行ったら、十人ほどの採用に対し百数十人も受けに来ていてダメだと思いました。だって、周りはみな美大生で絵がうまそうなんです。

 試験は教養とデッサン、それに動画の実技として「旗を動かす」というテーマが与えられました。受験生はみなそうですが、アニメはどう動かすのかなんて分からない。風にはためく旗を思い出し、けん命にえがきましたよ。「落ちた」と思っていたのに、届いたのは合格通知でした。


(4)北海道の人材育てたい
 東映動画(現日本アニメーション)時代は、私にとって大きな財産です。「ルパン三世」シリーズ作画監督大塚康生さん、「アルプスの少女ハイジ」の作画監督小田部羊一さん、「火垂るの墓」監督高畑勲さんなど、日本のアニメの歴史に名を残す多くの人たちがその時期、東映動画に集まっていたんですから。そんな先ぱい、仲間たちから本当にいろいろなことを学びました。

  特に親しかったのは、宮崎駿さん。「千と千尋の神隠し」などでよく知られていますが、入社早々から先ぱいに対してはっきり意見を言ってね。そして、それだけの実力もあって、とにかく絵をかく早さはすごかった。宮崎さんはそのころからオリジナル作品のシナリオを書いていて、私もよく読まされました。「おもしろくないな」というと「注意力散まんだ」とむっとしていました(笑い)。

  私のアニメーター(アニメを作る人)としての初仕事は一九六三年三月に公開された「わんぱく王子の大蛇退治」で、試写室で自分の絵が動くのをはじめて見て感動したのを今でもおぼえています。その後、会社をやめて独立し、東京都内にアニメ制作の会社「スタジオ座円洞」をつくりました。九三年には、札幌にもスタジオをつくりました。ふるさと北海道発のアニメを作り、将来の人材を育てたいという思いからです。

  アニメのいいところは、多くの人との共同作業の中で一人ではできない新たなものが生まれてくる可能性があること。それと、絵だけでなく音、音楽と組み合わせることで表現する力が広がるということでしょうね。

  アニメーターになりたいという人は私のところによくやって来ます。アニメ業界の現場は制作費が安くおさえられ、仕事もきついので大変です。だけど、アニメは世界が注目する文化となり、だんだんいい方向に向かっています。

  アニメーター希望の人に言いたいのは、とにかくデッサン力をつけること。それから、自分の考えをしっかり持っていてほしいということです。たんにうまく絵をかけるだけでは、いい作品はつくれません。いろいろなことを体験し勉強して、何かを生み出す創造力を育ててくださいね。いま思うと、中学生の私の弟子入りを断った影丸譲也さんもその時、きっと同じ思いだったのかもしれません。

  聞き手・編集委員 嵯峨仁朗


戻 る