札幌学院大の学長

布施晶子さん
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 (1)本に熱中 いつも夢見心地

 (2)戦争終わり のびのび

 (3)母が養い、父がしつけ

 (4)生涯かけて研究と教育
◆布施さん略歴◆

 ふせ・あきこ 1937年札幌市生まれ。北大文学部を卒業後、同法学部助手を経て、北大大学院博士課程を中退。専攻は社会学。静修短大《現在の札幌国際大》の教授を経て、77年に札幌商科大(現在の札幌学院大)の教授、今年4月に同大初の女性学長に。札幌在住。


(1)本に熱中 いつも夢見心地
 私は本が大好き。子どものころから本さえあればご機嫌でした。最初は絵本、それから童話。いまでも出張から帰った父、石田正彬(まさよし)のかばんの中からお土産の本が出てくるのを待つときの、あのどきどきした思いをしっかり覚えています。

 とりわけ鈴木三重吉編集の「赤い鳥」掲載の童話集を手にしたときの気の遠くなりそうな幸福感。小川未明とか、坪田譲治、北原白秋らの作品はいまでも鮮やかによみがえります。「家なき子」や「フランダースの犬」といった翻訳ものも読みました。「人魚姫」の話を読んでる時は自分も人魚姫になり、道行くとき、「フランダースの犬」のパトラッシュに似た犬を見つけると、もうポーッとなって幸せでした。いつも夢見心地で、母の茂子はよく「おまえはいつもボーッとしているね」と笑っていました。

 童話の次は少女小説に夢中になりました。小学校三、四年のころです。蕗谷虹児(ふきやこうじ)の挿絵にひかれ、小説の主人公の数奇な運命が気になって本を離せず、よく「早く寝なさい」と、しかられたことを思い出します。とても怖がりの少女でしたから、雑誌を読むときには探偵小説のページをあらかじめ安全ピンで止め、見えないようにしてから読んでいました。

 小学校四年の夏、右足の骨髄炎を患い入院、ペニシリンで散らしたのですが、翌年再発、市立札幌病院で大きな手術をしました。そもそも、栄養に注意が必要な弱い子どもでしたから、母は「あなたは、小学校に五年間しか行っていない。だから算数に弱い」と嘆いていました。しかし、私は病院のベッドで、山本有三の「路傍の石」とか下村湖人の「次郎物語」とか芥川龍之介の「蜘蛛の糸」とかに囲まれてご機嫌でした。作品の一つ一つからキラキラしたメッセージが届けられる思いで、ますます夢見心地になりました。親友が私につけたあだ名が「夢見る夢子さん」。

 そのころの札幌のまちは車も少なく、道路には石炭や薪を運ぶ馬車が行き交っていました。幌西(こうさい)小学校からの帰り道、本を読みながら歩いて、馬車を引く馬にぶつかってしまい、袖に馬の唾液がべっとりと付いて泣きそうになったこともありました。


(2)戦争終わり のびのび
 生まれた一九三七年に日中戦争が始まりました。国民学校に入学したのは四四年、毎朝、母の手作りの防空ずきんをかぶって登校し、武器を作るため鉄を国に差し出すよう命令され、国民学校に鉄びんを下げていった記おくがあります。

 二年生の夏に敗戦。家に帰り、母が「もう空襲の危険はない。家の外に光がもれても大じょう夫だから、電灯に黒布をかけなくても良い」と話したとき、本が大好きな私はとてもうれしかったです。

 世の中がパッと変わりました。札幌・幌西小でも、先生方の表情がとても明るくなり、男の先生と女の先生が笑いながら話をする姿が見られるようになりました。先生方は、新しい教科書が間に合わないからと、たくさんの教材をガリバン刷りで作り、「昨夜十一時までかかったのよ」とうれしそうにプリントを配った顔を忘れられません。夜おそくに用事があって、学校の前を通ったときに、職員室にこうこうと電気がついているのをみて「ああ先生方、プリントを作ってる」と思ってニッコリしたのを覚えてます。

 そのうちに、新しい教科書が配布されました。四八年から四九年にかけて中学・高校の社会科の教科書として「民主主義」が文部省から刊行され、先生方はそれを小学生でもわかるようにかみくだいて説明してくれました。私は、民主主義、日本国憲法、婦人参政権、男女平等、国際連合といったそれまで耳にしたこともなかった言葉に目をかがやかせながら聞き入りました。憲法九条の戦争放棄の話も心に染みました。五、六年生のころ、「母さんはどうして戦争に反対しなかったの。原爆に竹やりで勝てると思ったの」と聞いた時の母の困った表情をいまでも覚えています。

 また、「戦前、女の人は大学に入れなかった。わずかに東北大で学んだ女性がいるだけで、後は師範や高等女学校、専門学校。でも、これからは頑張れば大学に進めるんだ」と言う先生の話が印象に残っています。「女の子だから…しなければならない」とか一定のわくや型にはめるような言葉を投げかけた先生は一人もいませんでした。家でも、両親は「女の子は女の子らしく」的なことを、口にすることはありませんでしたから、実にのびやかに成長することができたと感謝しています。


(3)母が養い、父がしつけ
 私の父石田正彬と母茂子は、札幌の円山第二小の教師でした。一九三六年(昭和十一年)に結婚、翌年、私が生まれました。父方の祖母シナが同居していたこともあり、母は仕事を続けました。妹の桂子と迪(みち)子が生まれて母は家庭に入り、その後、弟正彦が生まれました。

 父は、札幌師範(今の道教大札幌校)を出て教師になりました。祖父は父が六歳の時に亡くなり、祖母は苦労して父を育てたそうです。その父が、勤めてすぐに、庁立高等女学校(今の札幌北高)専攻科をでて教員になった母と恋愛結婚したのですから、祖母の胸の中は穏やかでなかったろうと思います。祖母の愛は初孫の私に向けられました。「おばあちゃん子は三文安い」の言葉どおり、幼少期の私は、気が弱く、すぐメソメソ泣く、身体も弱い子どもで、いつも祖母の後を追っていたと聞いています。

 父は健康を害して教師をやめ、療養生活の後、日本鋼管に勤めました。しかし、再び病気になり退社。ろっ骨を十三本も取る手術を受け、私が小学校四年の時から、ほぼ高校を出るころまで、母が小学校教師と家庭教師をかけ持ちして七人家族を養いました。母は教だんに復帰するまでの一年あまりは、小間物の行商をして頑張りました。

 日中、家にいる父がしつけ役を担いました。学校であったことを話すのも、答案を見せるのも父でした。父は感情豊かで怒る時はすごい。私たちは「地震、雷、火事、おやじ」ではなくて、家ではおやじが先頭にくると笑っていました。でも、成績でも運動でも、頑張ると本当にうれしそうに認めてほめてくれたので、私はいろいろなことを頑張ったような気もします。

 母は冷静で、実に我慢強かった。子どもをしからない人で、一年生の時、学校に持っていったお金のお釣りで鉛筆のキャップを五本買って帰ったとき、家から閉め出されたのが唯一のしかられた記憶。ぐちをこぼす姿も記憶していません。器用な人で、幼いときの私は洋服からくつまで母の手作りを着て育ちました。料理も上手でした。私はいまでも母からゆずられたフライパンとかおへらを使っています。働く母に代わり、六年生のころから、夕食の支度は私の仕事。石炭ストーブの煙突掃除でも何でもやりました。その時は切なく思いましたが、後年、共働きの生活に入った時、炊事をはじめとする生活の技術が身についていることを感謝しました。

 貧しかったけど幸せな子ども時代でした。


(4)生涯かけて研究と教育
 私は、病気の父に代わって七人家族を養う母を見て育ちましたから、女性もいざという時に働く力をつけなければと強く思って成長し、北海道大学に進みました。

 中学、高校と大学でも文学に読みふけっていましたが、大好きな文学を分せきするのは気が進まず、社会学を専こうし、卒業後、北大の事務助手の仕事に就きました。そして半年後に、北大講師だった布施鉄治と結こんしました。

 大学四年の時に再々発した骨ずいえんで足が不自由になり、出産は無理と言われていたのですが、医者に助けられて息子、鋼治を授かりました。たとえようもなくうれしく、この子のためにも良い仕事をしたいと心にちかい、昼間は仕事、夜は子どもを背負って勉強して大学院に進みました。

 そのころ、大学の職員組合の会議でお会いした、戦前に獄死した社会科学者、野呂栄太郎の妻の塩沢富美子(ふみこ)さんが、栄太郎から常々「あなたは専門をお持ちなさい」と言われていたということを聞き、私も研究と教育を一生の専門にしようと決めました。女性が専門を持って生きることが可能な家族のあり方に目を向けた研究を始めましたが、専門職とはほど遠い仕事につく人が多い現実の社会のあり方にも目が向きます。その基そには、小学生時代に学んだ民主主義や男女平等の考え方があったと考えます。病気になった父が職場を追われ、社会保険もろくにないなかで、母が父の生命を救い、私たちを育てるために苦労したのを見て育った私は、家族と社会保障、さらに家族と国家の関係に目を向ける研究に打ちこみ始めました。こうして、共働きと福祉国家の研究をライフワークとしてきました。

 九年前、夫を失い、研究を続ける気力もなくしました。その後、同じように配ぐう者を失った郷路征記(ごうろまさき)《弁護士》と再婚、互いのかけがえない配ぐう者の思い出を大事にしながら、助け合っています。

 健康に注意して、毎年、卒業式の夜に学生に贈ってきた言葉、「あきらめず、あせらず、歩み続ける」人生を、若い人とともに歩んでいきたい。学長の仕事はとても大事だからまじめに取り組んで、少し遅れるけど、ライフワークのまとめを終えるまでは死ねないと心にちかっています。

 ふり返ってみると、たった六年間の小学生時代が、その後の長い人生の土台となったことがよく分かります。

 聞き手・編集委員 上村英生


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