私は本が大好き。子どものころから本さえあればご機嫌でした。最初は絵本、それから童話。いまでも出張から帰った父、石田正彬(まさよし)のかばんの中からお土産の本が出てくるのを待つときの、あのどきどきした思いをしっかり覚えています。
とりわけ鈴木三重吉編集の「赤い鳥」掲載の童話集を手にしたときの気の遠くなりそうな幸福感。小川未明とか、坪田譲治、北原白秋らの作品はいまでも鮮やかによみがえります。「家なき子」や「フランダースの犬」といった翻訳ものも読みました。「人魚姫」の話を読んでる時は自分も人魚姫になり、道行くとき、「フランダースの犬」のパトラッシュに似た犬を見つけると、もうポーッとなって幸せでした。いつも夢見心地で、母の茂子はよく「おまえはいつもボーッとしているね」と笑っていました。
童話の次は少女小説に夢中になりました。小学校三、四年のころです。蕗谷虹児(ふきやこうじ)の挿絵にひかれ、小説の主人公の数奇な運命が気になって本を離せず、よく「早く寝なさい」と、しかられたことを思い出します。とても怖がりの少女でしたから、雑誌を読むときには探偵小説のページをあらかじめ安全ピンで止め、見えないようにしてから読んでいました。
小学校四年の夏、右足の骨髄炎を患い入院、ペニシリンで散らしたのですが、翌年再発、市立札幌病院で大きな手術をしました。そもそも、栄養に注意が必要な弱い子どもでしたから、母は「あなたは、小学校に五年間しか行っていない。だから算数に弱い」と嘆いていました。しかし、私は病院のベッドで、山本有三の「路傍の石」とか下村湖人の「次郎物語」とか芥川龍之介の「蜘蛛の糸」とかに囲まれてご機嫌でした。作品の一つ一つからキラキラしたメッセージが届けられる思いで、ますます夢見心地になりました。親友が私につけたあだ名が「夢見る夢子さん」。
そのころの札幌のまちは車も少なく、道路には石炭や薪を運ぶ馬車が行き交っていました。幌西(こうさい)小学校からの帰り道、本を読みながら歩いて、馬車を引く馬にぶつかってしまい、袖に馬の唾液がべっとりと付いて泣きそうになったこともありました。 |