文化人類学者

岡田淳子さん
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 (1)寺社見学で歴史に関心

 (2)人づき合い 母に教わる

 (3)自分で確認した歴史

 (4)男女が平等な社会を
◆岡田さん略歴◆

 おかだ・あつこ 1932年、東京生まれ。明治大学、東大大学院、明大大学院などで学ぶ。専門は文化人類学のほか考古学、博物館学、女性学とはば広い。北大助教授、北海道東海大国際文化学部長、道立女性プラザ館長などを務めた。今春、北海道東海大客員名誉教授に。札幌市在住。


(1)寺社見学で歴史に関心
 みなさんは「あや取り」をして遊んだことありますか?

 私が長年、調査をしているアラスカの先住民族イヌイット(エスキモー)も、あや取りをしています。ベーリング海に面した島で、子供たちは「ガン、カモが飛んでいるところ」「魚をとる網」と指を動かし教えてくれました。

 使う糸が、カリブー(野生のトナカイ)の足のけん《筋》だったりしますが、遠いアラスカにも日本と同じ遊びがあるのは面白いですね。

 エスキモーとは、となりの地域に住んでいる民族の言葉です。今は、自分たちの言葉で「人」という意味の「イヌイット」と呼ぶようになりました。

 パーカという防寒服やイグルー(氷の家)の名前はみなさんも知っているでしょう。かれらには肉を生で食べる習慣もありました。その方がビタミンなどの栄養が失われなくて良かったのです。これらは厳しい寒さを乗りこえて北極圏に住みついた民族の知恵の結晶です。

 このような異なる文化、知恵を学んで生かしていく学問が、文化人類学です。しかし、彼らの暮らしは「文明化」して犬ぞりがスノーモービルに、半地下式の家が地上のふつうの家になり石油のヒーターを使うようになりました。キリスト教の布教や文明との出合いで独自の信仰、風習が少しずつ失われています。記録を急がなければなりません。

 私は、小学校に入るころから古いことが好きだったようです。建築設計の仕事をしていた父は神社、お寺など古い建物を見に行くことが多く、私もついていきました。そこには古い品物をしまう「宝物殿」があります。

 栃木県日光市の東照宮、奈良市の東大寺、三重県伊勢市の伊勢神宮などで、かぶと、よろい、古い食器などを見学しているうちに歴史に関心が高まっていきました。


(2)人づき合い 母に教わる
 私は五人きょうだいの二番目で、数字並べパズルやカードの一人遊びが好きな、おとなしい子どもでした。でも、一つ年上の姉に連れられて野原でかけ回り、春はツクシやヨモギ、秋はススキなどをつんで遊ぶこともよくありました。

 生まれは東京・渋谷です。にぎやかな都会をイメージするかもしれませんが、明治神宮の近くで、とても緑の多い所でした。

 歴史への関心を開いてくれたのが父なら、母には文化人類学者にとって大事な、人づき合いの基本を教えられたと思います。

 相手の文化を尊重して、対等な会話をすることが仲良くなれる第一歩です。

 母は、職業で人を差別することもなかったし、近所に乱暴もので敬遠されている一家がありましたが、ふつうの近所づきあいをしていました。「人はみな平等。どんな人にでもきちんとあいさつしなさい」と、しつけられました。

 母はまだめずらしかったミシンを習い、五人の子どもの服はみな自分でデザインしてぬい、ししゅうをしてくれました。私はそれを見て育ち、ぬい物の知識があったので、アラスカで毛皮で作った防寒着「パーカ」のぬい方、かざりの仕方などを女性たちから聞き取りした時、役立ちました。

 アラスカでは現地の人が親切で、よく食事に招かれます。干した魚などに付けて食べるアザラシの油にはすぐ慣れましたが、アザラシの血を入れて作ったスープや固まった油のアイスクリームは好きになれませんでした。けれど、いやな顔をしたり食べなかったりしたら仲良くなれません。アザラシは彼らにとっての大切な食べ物で、私たちにとってのおコメのようなものなのです。いっしょに食事をすることが仲良くなるための基本です。

 小学校の歴史の授業は「国産み」の日本神話から始まります。とにかく疑問を持たず、教えられたことを熱心に勉強していました。

 そのころ戦争が激しくなりました。私は父が買ってくれたなぎなたでけいこをしたり、兵隊さんの無事をいのる千人針に協力するなど当時の子どもとして「軍国少女」の一人だったと思います。

 空しゅうをさけるため、そ開した時、三冊だけ本を持っていってよいと言われ、そのうちの一冊に「源平盛衰記」という歴史読み物を入れたものです。


(3)自分で確認した歴史
 戦争に負けた一九四五年、教科書が黒くぬりつぶされ、信じていたことが一気に否定されてしまいました。中学二年生でしたが、「これからは、自分で確かめられる過去を学んでいきたい」と思ったのでした。

 都立富士高校の二年生の時のことです。新しい校舎が建てられることになり予定地に千三百年前、古墳時代の遺跡があることが分かりました。発掘調査が行われ、生徒たちにも応えんが求められました。私が入っていた「地理歴史クラブ」もふくめ生徒たち百人くらいが参加することになりました。

 土を掘り下げると、家の跡が現れ、当時の人々が歩いてふみ固めた家のゆかがパリパリとはがれるのです。当時の土器「土師器(はじき)」もたくさん出てきました。“自分の目で確認した歴史”に、とても感動しました。

 大学、大学院で考古学、人類学を学び、東京都博物館の学芸員になりますが、もっと勉強したくて、一九六四年、米国ウィスコンシン大学に留学し人類学や博物館学を学びました。フィールド(現場)に出て、机の上では分からないことも勉強できた二年間で、アメリカ先住民の文化がとても好きになりました。

 その後、日本で教職を得ることができましたが、「フィールドに出たい」という望みはますます大きくなりました。一九七二年、夫がアラスカの人類学調査を手がけることになり、私も同行していっしょに調査をすることにしました。

 最初にアラスカ半島にある、英語で温泉という意味を持つホットスプリング遺跡で発掘調査をしました。そこには約四千二百年前から人が住んでいて、すでに寒さをしのぐ文化が成立していたことが分かりました。家の低い所で火を燃やし、それより空気が暖かくなる高い所でねるという工夫のあとや、暖をとるためアザラシの油を燃やす石ランプが見つかったのです。

 現場は真夏でも気温は三−一○度くらいの寒さですが、地熱が一五度くらいあって地面を掘ると温かいのです。温泉は八○度もありました。前浜にはホッキ貝などがたくさんあって、昔の人々は温泉を使い貝や魚を蒸すなどしながら、豊かに暮らしていたのでしょう。

 私たちも毎夕、調査が終わると、このろ天ぶろの温泉に入ってつかれた体をいやすことができました。


(4)男女が平等な社会を
 地しんの時に、落ち着いて机の下にかくれるのは男の子−戦前の小学校の国語や修身《道徳》の教科書では、男の子の勇気や強さがえがかれ、女の子は取り上げられることが非常に少なかったですね。そんな授業のたびに、「私だって、男の子のように勇気のある行動をしたい!」と、心の中で反発していました。

 アラスカ半島やアリューシャン列島の先住民の狩りは命がけでした。あれる冷たい海で小さな皮の舟(カヤック)をこぎ、モリを投げてクジラなどの海獣をしとめます。男の勇気、たくましさが何より大事だったのです。でも、今はもう男女の役割がそれほどちがう時代ではありませんよね?

 アラスカの遺跡発掘には、十さいと五つの娘を連れていきました。真夏でも気温は一○度以下なのでスキーウエアを着せて、娘たちを発掘の終わった穴に置きっぱなしです。娘たちは「あの時のキャンプは楽しかった」と言ってくれるけれど、子育てと野外調査の両立はなかなか大変でした。

 夫も同じ研究者だったので、いっしょに調査に行けるなど便利なこともありました。けれど、共同で論文を書くと、いつも夫の名前が先になるので納得できない気分もあったのです。

 研究、調査で訪れたアメリカ社会で「女性学研究」が進み女性たちが活やくしているのを見て女性学の教育に関心が向き、日本でも女性の地位向上を目指そうと、この春まで道立女性プラザの館長も引き受けて活動しました。

 あるアメリカ先住民の社会では、人々の明るい表情が印象的でした。その秘密は男性も女性も対等に話し合って知恵を出すという男女平等の生き方から来るものと考えられました。議会も男女議員がほぼ同数。何か困った時に女性がアイデアを出し、男性がそれに賛成して力を合わせて解決することも多いそうです。これは、私たちも参考にしたいですね。

 私の話で考古学、人類学に興味を持ったら、博物館、郷土資料館、遺跡の発掘現場などを見学してはいかがでしょう。

 展示物、出土物を注意深く見てください。土器や石器を見て使い道などを想像していると、作った人や使用した人々のメッセージが聞こえてくるかもしれません。

 聞き手・編集委員 中尾吉清


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