大相撲の元横綱大乃国

芝田山親方
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 (1)農作業手伝い足こし強く

 (2)中3の夏、運命の出会い

 (3)全身どろまみれでけいこ

 (4)全勝で初優勝、横綱に
◆芝田山親方の略歴◆

 本名・青木康(あおきやすし)。1962年、十勝管内芽室町生まれ。78年春場所初土俵。第62代横綱。通算成績は560勝319敗107休。幕内優勝2回、殊勲賞5回、敢闘賞2回。91年引退。99年に芝田山部屋を開き、弟子の育成にはげんでいる。東京都杉並区在住。


(1)農作業手伝い足こし強く
 よく小さな子から「横綱と総理大臣はどっちがえらいの」と質問されます。そんなときは「総理大臣はネコの目のようにかわるけど、横綱は江戸時代から数えてもわずか六十八人だけ。横綱になるのがどれほど大変か、分かってもらえるかな」と答えます。特に北海道はたくさんの横綱が出ているので、そのすごさが分からないのかもしれないね。

 私が生まれたのは、帯広市のとなりの十勝管内芽室町です。十勝平野の真ん中で、今も昔も家の周りは畑や牧場で、遠くにゆう大な日高山脈が見えます。昔とちがうのは風を防ぐ防風林が、すっかり姿を消してしまったことかな。

 家は農業で、私が小さな時は乳牛を三十頭ほど飼いながら、ジャガイモやビートを作っていました。いつも畑が遊び場で、自転車を乗り回していました。近所に有名なニジマス園があって、遊びに行ってはつりをしました。

 体を動かすのは好きだったけれど、勉強は苦手だった。よく遊んでなんでもよく食べた。牛乳は飲み放題だし、カレーライスとジンギスカンが大好物。カレーなんて二、三皿ペロリだったね。両親がすしやそばもよく作ってくれた。小学校に入る前から、ほかの子供たちより頭ひとつは大きかった。

 そのころの農作業は、今ほど機械化されていなくて、大変な重労働なんだ。朝から晩まで一生けん命に働く両親を見ていたので、小学生の時からよく手伝ったよ。もちろんアルバイト代もこづかいもなし。四人きょうだいの長男だったし、「自分は親のあとをつぐもの」と思っていた。

 小学三年の時には、トラクターの運転を覚えて農作物を運んだからね。もちろん道路には出ないよ。イモの収かく作業も暗くなるまで手伝った。でも、体が大きかったし苦しいとは思わなかった。

 冬の間の牛の世話が一番大変だった。牧草や塩や水をあたえて、よごれた牛舎のそうじもするんだ。特に、カンに入れた水運びがきつかった。まあ、そんな仕事のおかげで足こしがきたえられたのかな。

 いなかだから自然にはめぐまれていた。春はウドやコゴミなどの山菜、秋はキノコをたくさん採った。冬は近くの嵐山スキー場へ行くのが最高の楽しみ。休みの日は一日中、夢中ですべっていた。こう見えてもスキーは検定二級のうで前なんだよ。


(2)中3の夏、運命の出会い
 芽室中学は自宅から約四キロの市街地にあったので自転車通学しました。十勝地方でも柔道の強い学校だったので、クラブ活動は迷わずに柔道部に入りました。

 入学時の身長一七○センチ、体重六八キロ。体は大人並みでしたが、柔道の受け身さえ知りませんでした。ところが、コーチがとても熱心な事務職員の人で、基そからみっちりと指導してくれました。クラブ活動のほかに柔道少年団にも通いはじめ、柔道一筋に打ちこみました。このころ、身長がぐんぐんのびていきました。

 得意技は、相手の体を引きつけて腰に乗せて投げる「払い腰」です。中学三年の昇段試験で念願の「黒帯」を取りました。このころは、十勝地方や北北海道で開かれる中学の大会は、出場すればほとんど優勝。メダルやトロフィーもたくさん手にしました。それは楽しかったですね。

 当然、高校で柔道を続けるつもりでした。道内の柔道名門高校の七、八校から「ぜひわが高校へ」とさそわれ、いろいろな先生が家を訪れました。母は「好きな柔道の道へ」と言ってくれました。

 ところが、中学三年の夏、ある出会いで運命が変わりました。芽室で大相撲の巡業が行われ、知人のしょうかいで当時大関だった魁傑(かいけつ)関に会ったのです。

 「体大きいな。相撲やってみないか」とさそわれました。でも、大都会の東京も相撲社会もまったく知らなかったし、人前ではだかになるのもいやでした。

 ところが、九月にも大関が芽室にやって来ました。また、地元にいる大関の後援者の人が何度も何度も、すしや牛肉などごちそうを持って家に来るのです。私はにげ回っていました。母も親せきの多くも反対したのですが、父親だけが「柔道では強くなっても生活できないし、大相撲へ行け」と言うのです。

 とうとう、東京の花篭部屋へ見学に行きました。ごちそうを食べ、おみやげをもらって、もう「いやだ」とは言えませんでした。ついに中学三年の一月に大相撲入りを決意しました。中学卒業を目前にした一九七八年二月に上京し、入門しました。「卒業式には帰すから」の約束があったのですが、三月の大阪場所から相撲を取ったので、残念ながら卒業式には出席できませんでした。


(3)全身どろまみれでけいこ
 上京直前、十勝管内芽室町で盛大な「励ます会」が開かれ、新聞記事にもなりました。出発の日、帯広空港では親せきや同級生らおどろくほど大勢の人たちが見送ってくれました。ただ、「これで相撲をやめてもどって来たら、親きょうだいがはずかしい思いをする。とても帰ってこられないな」と思い、「相撲の世界でがん張ろう」と決心しました。

 私は現役の大関の内弟子として相撲界に入ったので、大関のいる花篭部屋の「あずかり弟子」となりました。

 初めての土俵は前相撲といって、“新人同士”の対戦です。私は一度もけいこをしないまま、「青木」の本名で大阪の土俵に上がったので、何がなんだか分かりません。柔道の技でせめることも考えましたが、相撲と柔道ではまったくちがいます。簡単には勝てませんでした。「こんなことではとても幕下にもなれないだろう」と思いました。

 けいこして強くなるより仕方ありません。毎朝、三時、四時とだれよりも早く起きてけいこしました。全身どろまみれ、あせまみれです。でも泣き言はいいませんでした。

 大相撲には序ノ口から横綱まで厳しい番付《階級》があります。幕下以下の力士は給料もなく、一人前あつかいされません。また、十両以上の「関取」の付け人となって、身の回りの世話のほか、部屋やトイレのそうじから洗たく、食事を作るちゃんこ番や食器洗い、兄弟子のおつかいなど雑用が山ほどあります。

 わけもなくなぐられたり、いじめにもあいました。私はいやなことでも兄弟子の言うことは素直に気持ちよくききましたから、かわいがられました。「牛丼買ってこい。おまえの分は三個な」。よくそんなうれしいこともありました。

 私は十七歳で三段目になって、二年半ぶりに初めて芽室に帰りました。当時、付け人をしていた横綱輪島関からもらった紫色の着物姿です。両親は私の元気な姿を見て、本当に喜んでくれました。

 と中でやめていく仲間もたくさんいたし、さみしいこともありましたが、私は「しんぼう、しんぼう」と自分に言い聞かせ、一層けいこに励み、上の番付を目指しました。


(4)全勝で初優勝、横綱に
 一九八一年一月、放駒(はなれごま)親方《元大関魁傑》が花籠部屋から独立して放駒部屋を起こし、私もその部屋に移りました。幕下の私が部屋頭(番付が一番上)なので、けいこはもっと強い力士がいるほかの部屋に「出げいこ」しました。

 当時、角界(相撲界)一の“あらげいこ”で知られた二子山部屋です。親方は、現役時代に「土俵のオニ」といわれた横綱初代若乃花です。関取衆もその後、横綱や大関になるものすごい人たちが、血のにじむようなもうげいこをしていました。私も先ぱいたちの胸を借りて、ふらふらになってたおれるまでけいこしました。何度、あせと一しょになみだを流したことか。

 おかげで、八二年春場所、十九歳で「関取」と呼ばれる新十両にしょう進しました。幕下までとは、待ぐうが一変します。個室があたえられ、ちょんまげの形から着物、まわしまで上等な物に変わるのです。何より月給が当時で四十六万円ももらえました。

 ところが、一場所で負けこして幕下に転落。十両にもどるのに三場所かかりました。

 その後は順調にしょう進し、二十歳で新入幕し「幕内」になり、その年の九州場所では北の湖、千代の富士、隆の里の三横綱を破りました。その後、関脇、大関としょう進。大関の八七年夏場所、十五戦全勝での初優勝を果たしました。

 相撲界最高位の横綱になったのはこの年の秋場所後です。横綱になってからはけがと病気に苦しみ、満足のいく土俵が務められませんでした。

 今でも「思い出の一番は五十三連勝の横綱千代の富士に土をつけた一番ですか」と聞かれます。が、私の思い出の一番は、若い時からけいこをつけてくれた当時の大関隆の里関に初顔で勝ったことです。

 二十八歳で引退し、五年前に自分の部屋を持ちました。今、若い弟子が九人います。幕下上位の力士もいるが、何しろ昔と比べたら、みんなけいこが足りないね。

 弟子には、礼ぎ作法から教えるし、新潟県に田んぼを借りて、自分たちで米作りをしています。食べ物の大切さと、米作りの苦労を弟子たちに教えるためです。

 北海道では毎夏、十勝管内芽室町で合宿しているし、昨年からは、砂川市で「大乃国杯全道少年相撲大会」を始めました。力自まんの子どもたちは、ぜひ出場してください。

 聞き手・編集委員 小野初雄


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