文化庁長官、臨床心理学者

河合隼雄さん
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 (1)仲間で遊ぶ楽しさ知る

 (2)遊びから人間関係学ぶ

 (3)大きくなったら「学者に」

 (4)戦争中 笑いで反こう
◆河合さんの略歴◆

 かわい・はやお 1928年生まれ。52年に京都大理学部卒業。日本の臨床心理学の第一人者。京大名よ教授で、2002年から文化庁長官。奈良市在住。


(1)仲間で遊ぶ楽しさ知る
 人口六千人の兵庫県篠山(ささやま)町《現在の篠山市》で育ちました。兄弟が六人いて、上から仁(ひとし)、公(ただし)、雅雄(まさお)、迪雄(みちお)、ぼく、そして逸雄(いつお)、男ばっかりです。小学生時代はしょっちゅう、遊んだなあという思い出が強いです。

 ぼくは割と本を読むのが好き。当時は本を読まないのが健康的で良い子でした。ぼくは兄に言われてついていって遊ぶ。結局、楽しいんです。

 街から半時間歩いたら川があり、里山もあるので、わんぱくぼうずが子供たちを引き連れていきました。ぼくも兄に連れられていくわけです。ちゃんばらをやって三回切られたら死ぬとか、かくれんぼ、おにごっことか、本当によく遊びました。

 いっつも兄のこしぎんちゃくでしたが、小学三年の時、同級生の仲間で遊ぶのが面白いとわかりました。当時、電気のメーターがついてない家が多く、午後五時になったら、ぱっと家の電気がつくんです。うちは歯科医院なので、メーターがありましたけど。遊んでいて、電気がついたら帰ろうとよく言いました。

 「学校から帰ったら、どこに集まる」と言ったら、みんな集まるんです。仲間で遊ぶ楽しさがすごく印象に残っています。兵隊ごっこや軍かん遊びもよくやったなあ。結構、ルールも守るんです。

 セミやトンボとりもよく行きました。魚をとるのは、家で食べられ、喜ばれるからです。石の下にいる魚をにぎる。兄がものすごく上手で伝授されました。手だけでつかむ。篠山でモトとか、イチクチ、ハヤとかいっていた魚をつかみました。時々困るのが石の下にいるイモリ。魚かと思ったら、イモリで、「キャー」。魚ははらわたをぬいてきれいにして、もって帰り家で食べました。つりもよく行きました。買ったつりざおでなく、うちの竹やぶからとってきた竹でつるんです。

 兄のこん虫採集にも、よくついていきました。ヤマをかけ回っていたので篠山には思い出がいっぱいです。


(2)遊びから人間関係学ぶ
 ぼく以外の兄たちはみんな運動神経が良かったです。

 兵庫県の篠山は雪も降るので、雪合戦もしたし、雪だるまも作りました。寒い日は、皿に砂糖水を入れて外に出すと朝、こおっており、「氷がし」として食べました。

 テレビどころか、ラジオのある家もめずらしかった時代です。ベルリンオリンピックが、うちのラジオはものすごくよく聞こえるというんで、兄が必死になって聞いていたのを覚えています。

 ライスカレーがものすごいごちそうでした。母の静子が婦人会の講習会でマヨネーズの作り方を習ってきました。それがうまくて、忘れられません。なべに残ったのをなめさせてもらいました。

 兄弟が多いから、トランプや将ぎ、ゲームも結構、やりました。小学三、四年の時には、マージャンが得意でした。うちは親子でやれます。マージャンは小学校で卒業した感じ。点数の数え方が低く、二点棒もありました。その分、計算がものすごく複雑でした。花札もよくやりました。大将や戦車などのこまが進む「軍人将ぎ」も好きでした。

 遊びがふんだんにあり、ぼくらの人格形成は遊びによってできました。そこで、人間関係とか、負けるとくやしいけど、しんぼうしなきゃいけないとか、結局、見習っていくんです。兄弟でやっているので、面白くするのにルールを変えたりして、創造性も養われました。マージャンもパイで城を作ったりと、兄弟でつくった遊びも多い。ものすごく新せんな毎日だったなあ。

 家庭がハイカラなふん囲気でした。母は結こん前、小学校の先生をしていたので、足ぶみオルガンが家にありました。母がオルガンをひき、男兄弟と父秀雄が歌う。ぼくも勝手に好きなようにひきました。

 父はめったに子供と遊ばないので、遊んでくれる時、ものすごくうれしいんです。土曜の夜にいっしょに。部屋の中で目かくししてつかまえるとか。たまに遊ぶのが効果的で、うまい。いつ遊ぶと前から宣言しているんです。歯科医院は毎月十日、二十日、三十日が休み。それが土曜や日曜にあたると遊んでくれました。休院日が日曜にあたったら、みんなをひき連れて遊びに行ってくれました。


(3)大きくなったら「学者に」
 兄たちが大きくなると、うちは女の子がいないので、両親が、女の子とつきあうべきであると、近所の女の子を家に呼んできて、兄弟といっしょに歌を歌ったりしました。

 ぼくが小学生でも、上の兄は東京の学校を出て、ハイカラな歌を覚えてくるんですよ。女の子といっしょに歌ったりするから、小学五、六年のぼくからみると、もう、かっこいい。大正末期から昭和初期にはやった「想い出のカプリ島」「小さな喫茶店」などのタンゴを歌いました。

 兄が映画の話をすると、ぼくはむちゃくちゃあこがれてね。都会のふん囲気、SPレコードとか持ってくるんですよ。藤山一郎の流行歌をきいて感激していたら、兄が「もっと好きなのがある」と言って、「洋楽」をもってくるんです。「カルメン」とか、すごくかっこよかったです。

 太平洋戦争が始まった一九四一年(昭和十六年)に、私は旧制中学一年です。小学生のころはそれほど、戦時色がひどくはありませんでした。小学三、四年のころ、大きくなると何になると聞かれて、みんな「陸軍大将」とか言っていました。

 ぼくはどうもなる気がしない。軍人は人殺しばかりしていて。ほかのものになりたい。「学者」がある。兄も「おまえは学者になれ」という。ほかの人には「学者になりたい」とは言えません。「一番は軍人。なれなかったら学者になる」と言っていました。本当のことが言えない時代だったのです。

 みんな軍国主義に染まっているのに一人だけちがう。でも、たくさんいる兄弟には本当のことが言えました。兄弟でも二男、四男は軍人になると決めていましたが、ぼくには「おまえは軍人にはならないほうがいい」と言う。ぼくは運動神経がにぶいので、兄弟みんなが認めていました。

 中学校時代で忘れられないのは、入学祝いに京都に行かしてもらい、学生だった二番目の兄の下宿を訪ねた時です。総天然色(カラー)映画の「ロビン・フッドの冒険」に連れて行ってもらい、ものすごく感激しました。イギリス映画です。アメリカ(米国)とイギリス(英国)を敵視する当時の日本のスローガン「鬼畜米英」を聞いても、あんな素晴らしいものをつくった国の人間が鬼とは考えられません。「本当なのか」と思いました。そういう点もみんなとちがうんです。

 家庭が割と自由主義だったので、先生が間ちがったり、うそをついたりするのがいやでした。先生がごまかすと、ぼくがぱっと言うんです。本当にものすごくおこられました。そのころから、じょう談がうまくなったんです。


(4)戦争中 笑いで反こう
 戦争中はストレートにものが言えない時代だったから、冗談が小学生のころから、うまくなったのでしょう。

 型通りを破るのは、笑いしかありません。当時、皇族の宮さまが来ると、一時間も前から道に並ばされました。最敬礼して、頭を上げた時には宮さまはいない。ぼくは腹が立って、みんな並んで厳しゅくな時に冗談を言ったんです。みんな笑いました。先生が「だれだ」。わん力が弱い子だったから、笑いで反こうしたのです。

 理不じんなことも多かった。中学校長が詩ぎんを好きになると、全校生徒を講堂に集めて、詩ぎんをうならせようとしました。ぼくは「詩ぎんはしゅ味だ、好きな者がやるべきで、全校生に強制すべきでない」と言って、みんなが講堂に入る時に一人だけ帰りました。いつおこられるかと思ったら、だれもおこりませんでした。戦争中はみんないっしょに上の者の言うとおり動いていました。ぼくにも愛国心はいっぱいあるけど、やり方がおかしい。

 当時、少年航空兵になって国のためにがん張らねばと言われ、成績のいい者は全員、グライダー部に入らなければならないという空気がある時に、ぼくは「入りたくないから入らない」と言いました。先生に「おまえは敵国のスパイだ」、生徒みんなにも「スパイ」「スパイ」と言われました。でもみんなは、面白がっているだけで、いじめられた体験はありません。

 兄たちは、ぼくの戦争反対を理解してくれましたが、「うっかり人に言うなよ」と言うんです。

 近年、子供たちの悲しい事件が多いですね。今の子供たちは、親とか教師のちょっとしたことでつらい思いをしているのかなと、思います。全ぱん的な空気として、有名大学に入るのが一番とかではなくて、もっと自分のやりたいこと、好きなことをやってくれていい。そういうかん境を大人はつくらなきゃいけません。

 遊びの世界は本当に自由だから、ぼくは人間関係のびみょうなことを子供なりに学習しました。ものすごくいばっている子にどう対こうするか。けんかが強いからって降参するやつもいるし、下手をすると、なぐられるだけで終わる。うまくいくかどうかは、言い方によるんです。

 聞き手・編集委員 上村英生


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