海洋冒険家

今給黎教子さん
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(1)失敗おそれず冒険しよう
 わたしは海が大好き。毎日、鹿児島の海で水をかいたり、もぐって、記おくがあるころにはもう泳いでいた。何キロでも何時間でも泳げるよ。

 ところで、海辺に「遊泳禁止」と書いた看板が立っていることがあるね。看板はなくても、みんなは、海水浴場でないところで泳いだら何か言われる、しかられると考えたりしませんか。

 ルール、決まりは大切なものもあるよ。だけど、だれが決めたのかわからない、納得できないことにまで従うばかりの人生でいい? どう行動するか決めるのは自分の心、勇気、技術じゃないかな。

 泳ぎがうまくなければ、水中めがねや足ひれの助けを借りるといい。失敗するかもしれない。それは自分の責任。冒険するって、こういうこと。もちろん、君たちが「そこまでして、海で遊ぶ必要ない」と思うのなら、泳がなければいいんだよ。

 北海道では、子供が海で遊ぶ姿をあまり見かけないね。海岸でたくさんのコンブに見とれていたら、出会った子が「とったら、つかまるよ」だって。わたしをあやしいと思ったのか、「みつ漁かん視」の車もやってきた。「してはいけない」ルールばかりで、海に親しみを持ったり、大切にしようという気持ちが生まれるんだろうかなあ。

 先祖はおさむらいさんだった。今給黎って鹿児島県に多い名前です。お医者さんもいて、世界一周の時には、無線を通じて健康面のアドバイスをするなど、応えんしていただきました。

 父は連(むらじ)、母は海子(うみこ)といいます。父は、学校の美術の先生。海が好きな人で、毎日、わたしを海に連れて行ってくれました。


(2)本と出合い 海にあこがれ
 小学校では、図工や体育が得意だった。体は大きいほうで六年生の時に一六○センチくらいになって、力では男子に負けなかったよ。女の子が「いじめられた」と泣きついてきて、わたしは「またなの、もぅ」とか言いながらポカリと男の子をやっつけることが多かったなあ。

 十さいの時、父が病気になり、病院のある鹿児島市に引っこしましたが、父はなくなってしまいました。新しい家は海から遠く、もう海に連れていってくれる人がいません。大好きな海に行きたい、父との思い出をなぞるためにも、海に行きたい! 満たされない思いがエスカレートしていきました。

 中学校では水泳部に入り、図書室で海の本を読みあさりました。「ダブ号の冒険」という本とは運命の出合いだったなあ。ロビン・リー・グレアムという十六さいの少年がたった一人、ヨットで世界一周した記録です。

 五年間、少年はあらしや無人島の探検など、いろんな体験を重ね成長していきます。パティという女の子に出会い、世界一周を達成した後、二人はパパとママになるんです。夢中になって何度も読み返し、海やヨットへのあこがれはふくらむばかりでした。

 「ダブ号の冒険」は映画にもなり、本は、小学館から再び出版されています。わたしも、解説を書かせていただきました。

 ヨット部のある高校に進みました。漁師だったおじいさん(母の父)は、わたしが生まれる前、あらしの海でなくなっています。水泳やヨットに熱中していたわたしに、母がおじいさんの話をしてくれました。でも、おじいさんへの思いが高まることはあっても、海がこわくなるなんてなかったなあ。

 このころ数学が苦手でした。「わたしの人生に数学はいらない」なんて開き直っていたよ。

 陸地をはなれヨットで長期間、航海していると「天測」で自分の位置を知る必要があります。目印の星の角度を測り、地球上に自分がいる位置を計算するんだけど、それには高校レベルの数学がかかせません。

 後で天測技術を一人で勉強したけど大変でした。あー、高校の数学の先生が「ヨットをするおまえには必要だ」って言ってくれていたらなあ。


(3)母の応えんで世界一周
 高校を出て一九八三年、鹿児島市役所に勤めました。戸せき、住民票に関する仕事は面白かったけれど、一九八八年の太平洋往復の前に退職しました。

 ヨット「海連」は、父が母《海子》におくった「海」という詩と、父の名前「連」から名づけました。母は、はずかしがったけどね。長さ十メートルあまり、約四・五トン。何かトラブルがあったら、あれる海でも命づなをつけて高さ十四メートルのマストに登るんだよ。

 一九九一年十月、鹿児島から、どこの港にも寄らない単独無寄港の東回り世界一周に出ました。コースは、季節風や気象、海流などを検討して自分で決めたんだよ。

 出港から百日あまりで、船乗りたちにおそれられた、あれる南米のホーン岬を回って大西洋に出ると大小の氷山がせまってきた。ぶつかればヨットはバラバラになってちんぼつしちゃう。三日間、氷山がただよう海で、ねむらずに見張りをしたよ。

 氷山を警かいする手がかりは海鳥の動き。氷山がとけた水と海水が交じってプランクトンが発生し、小魚、海鳥が集まるからね。

 「半年以上、一人だけだったら自分はどうなってしまうんだろう」−そんなこわさもあった。太平洋往復は百四十二日間だったけど、サンフランシスコで人に会っている。世界一周は、太平洋片道の四倍だからね。でも自分がしたくて、いどんだ冒険だから「さみしいよ〜」なんて弱音を口にすることはできない。

 多くの人が無線ではげましてくれたけれど、母はすごかった。父が死んで、三人の子供を育てるため仕事に追われ、あまりかまってくれなかった。その母がアマチュア無線めん許を取った。

 嵐でヨットが横だおしになったり機械が故障したり苦しい時はいっぱいあったけれど、母の応えんで二百七十八日間の航海を乗り切ることができました。母は強い鹿児島の女。今でも母にはたじたじになってしまうなあ。

 太平洋往復に一千万円、世界一周に五千万円くらいかかった。生命保険をかけて、それでお金を借り、帰ってから講演などでお金を返しました。冒険に理解のある国だと、応えんしてくれる会社などが見つかるのに、日本はまだ難しいね。


(4)海のすばらしさ 再発見を
 今、力を入れているのは「海の学校」です。四十人くらいが乗れる帆船に子供たちを乗せて海のすばらしさを共に学びます。

 海辺の町も、人が減って元気がなくなっているけど「こんなに美しい海があるんだから元気を出そうよ」って呼びかけたい。ふるさとの海の価値を再発見してほしい。

 海には、厳しい現実もあるね。魚や天然ガスなどの資源をめぐる争い、船の戦い…。昔、男の子はマグロ船に乗りたがった。何カ月も乗って帰ってくると、たくさんお金をもらえた。今は安い給料で働くインドネシアなどの人々が乗り組むようになり、日本人が海で働ける場がせばまっているね。

 この前、スマトラ島おきなどの大きな津波で、たくさんの人が亡くなった。みんな、海はやっぱりこわい、と思ったかな。津波にまきこまれた人、何も気づかず外洋でのんびりヨットに乗っていた人…自然の運命としかいいようがない。

 だけど、海は昔から文化や物を運んできた、人々が生きるための道でした。陸上のように決まった道があるわけじゃない。自由に世界へ行き来できる、未来に通じる道が無数にあるんです。

 この前、ヨットで七十一日あまりで世界一周したイギリス人女性がニュースになっていた。わたしは二百七十八日だったから、すごいスピードだね。ヨットなどの性能が良くなっているから、男性より体力がおとる女性ということはたいしたハンディにはならない。大事なのは冒険する心。

 今のところ、わたしの冒険心は満たされている。小さな帆かけ舟で鹿児島から北海道まで一年二カ月かけて北上し、昨年八月、ゴールの室蘭市に着きました。エンジンがなく、しおの流れや風の向きを見きわめながらの航海で、転ぷくも二度あったよ。

 小さな舟にみんな目を丸くしたけど、大昔から四、五十年前まで、こんな舟が日本各地の海を行き来して文化や物を運んでいた。わたしの冒険は、こんな歴史を思い出させる効果もあったかもしれません。

 その満足感が今も続いているから、今のところは自分一人で何かしようという計画はないなあ。でもまた、自分一人の冒険をしたい。そう思う時は必ず来ると思う。

 聞き手・編集委員 中尾吉清(よしきよ)


 ◇今給黎さんの活動はホームページ「今給黎教子公式ウェブサイト」でしょうかいしています。「青春夢航海」《星島洋二著、共同通信社》という本でも今給黎さんの航海を記しています。


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