もっと知りたい オホーツク文化

Q 奥尻島の意味は
A 南北文化の懸け橋担う

 道東や道北が分布の中心だったオホーツク文化の遺跡が、道南の奥尻島でも見つかったことは、何を意味するのか。

 奥尻島の調査では昨年以降、オホーツク文化の住居跡が複数見つかった。また昨年発掘された「オホーツク式土器」のかけらから、少なくても五十個前後の土器が存在したと推測され、オホーツク文化の集団が一定期間、奥尻島で生活していた可能性が高い。

 興味深いのは、女性の人骨一体と子供の頭骨二個が見つかった墓だ。この墓はもともと、オホーツク文化の竪穴住居だったとみられる。ただ住居を建てるために掘ったくぼみをさらに掘り下げて墓に転用している点や、手足を伸ばしてあおむけにした女性の埋葬方式は、擦文文化の特徴だ。

 一方で副葬品には、擦文とは異なる文化の特徴も混在する。骨でできた円盤状の帯飾りは、サハリンや千島列島とつながりが深い。首飾りなどに用いられた碧玉(へきぎょく)製管玉は本州産と推定される。南北双方の文化が奥尻島で交わり、オホーツク文化がその“懸け橋”になっていたとも考えられる。

 また道開拓記念館の右代課長は「日本書紀」に注目。六六〇年三月に朝廷の命で阿倍比羅夫が討ったという「粛慎(みしはせ)」が、「オホーツク文化の集団ではないか」とみる。一戦を交えたと言われる「大河のほとり」は石狩川河口という説もあり、「もし奥尻島までオホーツク文化が広がっていたのなら、日本書紀の記述とつじつまが合う」と指摘する。


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北海道新聞
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