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 2003/01/09(木)
 調査報告
その3 ルーツを探る
 ジンギスカン。この名前にはモンゴルが生んだ英雄の姿と、広大な草原のイメージが重なる。当然かの地ではポピュラーな料理だと、探偵コンビは信じ込んでいた。だが、調査が進むうちにどうも違うようだと分かってきた。日本人が考案し名前をつけた和風料理らしい。しかも「富国強兵」に象徴される日本の近代史とも深いつながりがある。ジンギスカン料理誕生の歴史を追った。
 一、モンゴルは無関係
 一、駒井徳三氏が命名
 一、満州進出きっかけ
モンゴルでは羊肉を金属缶に入れ、たき火で蒸し焼きに=1995年、ウランバートル郊外
家族と写真に納まった駒井徳三氏(中央)。左端が少女時代の今井通子さん=1954年ごろ撮影
国政さんと成吉思荘の住所にたどりつくとマンションの建設現場になっていた=東京都杉並区
 ジンギスカン。この名前にはモンゴルが生んだ英雄の姿と、広大な草原のイメージが重なる。当然かの地ではポピュラーな料理だと、探偵コンビは信じ込んでいた。だが、調査が進むうちにどうも違うようだと分かってきた。日本人が考案し名前をつけた和風料理らしい。しかも「富国強兵」に象徴される日本の近代史とも深いつながりがある。ジンギスカン料理誕生の歴史を追った。

 ジンギスカン料理がこの名前なのはなぜ? これが探偵団をとらえた最初の疑問だった。「モンゴルがルーツだからだろう」と、聞き込みを始めた。しかし…。

 「モンゴルではもちろん羊肉を食べる。でも、ジンギスカン料理はありませんね」

 中国・内モンゴルで羊料理を学び、滝川市でラム料理の店「ラ・ペコラ」を開く河内忠一さん(48)が軽やかに答えた。いきなり見込み違いだ。

 内モンゴルの羊肉の料理は塩味で煮た「シュウパウロウ」がメーン。羊肉を焼いた中華料理「コウヤンロウ」もあるが、ジンギスカンとはほど遠いという。

 道立中央農試(空知管内長沼町)にジンギスカン料理の権威がいる。高石啓一研究主査(59)だ。わらにもすがる思いで高石さんを訪ねた。

 「羊の肉をどう利用するか。そのためにジンギスカン料理ができたんです」

 明治時代、羊毛は厳寒地用の軍服の素材に欠かせなかった。だが、第一次大戦時に輸入が絶え、政府は一九一八年(大正七年)、羊毛自給をめざす「綿羊百万頭計画」を開始した。軍備を支える国策としての綿羊飼育で、滝川や札幌・月寒など全国五カ所に種羊場が開設された。肉の活用も種羊場を核に進められたというわけだ。

 では、ジンギスカンはだれがいつ考えたのか。「命名者は札幌農学校出身で、満州国建国に深くかかわった駒井徳三氏でしょう。ジンギスカンの文献での初出は昭和六年(一九三一年)にさかのぼれる」と高石さん。

 日本軍の旧満州(現中国東北部)進出にからみ、身近だったコウヤンロウをヒントに日本人の口に合う羊肉料理が考えられる。そして義経伝説に連なるジンギスカンの名前が付けられた−。

高石啓一さん
 駒井氏が満州にちなんで名付けた娘の満洲野(ますの)さん=故人=も「父がジンギスカン鍋と命名した」と一九六三年発表のエッセーに書いている。

 孫で登山家の今井通子さん(60)=東京都世田谷区=は、祖父の豪快な姿をよく覚えている。「撃ったカモを腰にぶら下げて帰り、ごちそうしてくれた。温和さと野性味を併せ持つ人でした」。大陸的なロマン漂う命名をしたのもうなずける。

 そう言えば、これまでの調査でも「満州」はキーワードだった。一回目でお伝えした札幌・月寒の専門店、二回目で扱った岩手や高知の店。創始者はみな満州で料理のヒントを得たのだ。

 ジンギスカンが道内で爆発的に広まったのは、皮肉にも国策としての「百万頭計画」が忘れ去られた戦後のこと。普及の理由は「値段が安い割においしい肉料理だったからですが、名前の魅力も大きかった」(歌原清・松尾ジンギスカン専務)。

 最初はばらばらに見えた点が、つながって線になった。ジンギスカン誕生をめぐる「点と線」。そこには近代日本の歩みの影の部分も隠されていた。(渡辺創)

日本で初の専門店 華やかさ名残なく 「成吉思荘」跡を歩く
 「ここです、ここ。昔のおもかげは残っていないなあ」

 東京都杉並区の地下鉄丸ノ内線東高円寺駅近くの住宅街。遠い記憶をたどるように歩いていた日本緬羊協会(東京)の国政二郎副会長(71)が、マンションの工事現場を指さした。

 一九三六年(昭和十一年)、食肉商の故松井初太郎氏が日本で初めて開いたジンギスカン料理専門店「成吉思(じんぎす)荘」の跡地。国政さんと目を凝らしたが、喜劇俳優として一代を築いた古川緑波(ロッパ)をはじめ芸能人や有力政治家も訪れた華やかな店の名残はどこにもなかった。

 夜は照明がこうこうと輝き、駐車場には黒塗りの高級車が絶え間なく乗り付けた−。同協会に残る文献を見ると、当時の成吉思荘の格調高い雰囲気が伝わってくる。

 松井氏は一九〇七年(明治四十年)から羊肉販売を始めた。当初、顧客は外国人ばかりで、日本人は新渡戸稲造だけ。そんな時代から羊肉普及の先頭に立った。

 国政さんは同協会に入った直後の六二年ごろ、同荘を初めて訪れた。「立派な庭園があり高級料亭の雰囲気。客は身なりのいい人や文化人風の人ばかりでした」。当時の国政さんの月給は約二万円。それが一回の食事に五千円もかかった。接待などの場だった。

 最後に訪れたのは閉店直後の九四年ごろ。三代目と思われる主人から、初期から最近までの大小形もさまざまな鍋の購入を持ちかけられた。

 戦後国内の羊の飼育数は羊毛を取るためのブームが起きた五七年の九十四万匹がピーク。その後は減り続け、現在は約一万匹あまり。羊の飼育指導などを仕事とする協会に余裕はなく、すぐには決断できなかった。

 「それから一、二年後に消息が分からなくなった。あの鍋はどこに行ったのか」。国政さんの表情は非常に残念そうだった。(鈴木順子)

<ひとくちメモ> 駒井徳三氏(1885−1961年)は滋賀県出身で札幌農学校(現・北大)に入学。卒業後に満州鉄道に入社、農業開発を担当した。31年(昭和6年)の満州事変の直後に関東軍顧問となり、満州国建国工作で中心的な役割を担い、同国総務長官心得に。戦後は公職追放となったが、解除後、富士山ろくの開発に取り組んだ。

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