第1部 源流
「分からないんです」 一転「バカ野郎」 |
| 鈴木宗男が元農水相、中川一郎の私設秘書になったのは1969年。拓殖大政経学部政治学科4年の学生だった。中央省庁を走り回り、「分からないんです」と頭を下げて教えを請う実直な若者だった。 ところが、2年目ごろから変ぼうする。同僚を怒鳴りつけるようになった。先輩秘書の1人は「怒るときは『バカ野郎! おまえ、この野郎』。先輩も、議員でもお構いなし。運転手や秘書はよく受話器で殴られた。自分も血を流したことがある」と明かす。 9歳年上で、中川事務所の先輩格だった元衆院議員、上草義輝の関係者は「初めは『上草さん』と呼んでいたのが『上(うえ)さん』になり、ついには『うー』。議員になってからも『うー』だった」。若手の国会議員に「食事代を払ってこい」と財布を放り投げた、との証言もある。 だが、中川の信厚く、金庫番として政治資金の管理を取り仕切った鈴木に、正面切って反発できる者はいなかった。 秘書になるまで、それほどの激しさ、傲岸(ごうがん)さを周囲に見せてはいない。 母校・足寄高で、硬式野球部の後輩を1、2度殴ったことがある。だが、同じ部だった同窓生は「当時の風潮を考えれば特別なことじゃない。鈴木が弱い人間に強く出ていたとか、そんなことは決してない」。拓大で親しかった学友も「講義をさぼらず、マジメで目立たない。一言、二言多かったが、今みたいな性格じゃなかった」と言う。 ただ、内面の激しさを示す証言もある。 拓大時代、燃えさかっていた学生運動に、鈴木は「学生の本分を外れている」と反発。左翼の学生運動つぶしのサークルに出入りしていた。「新左翼の学生活動家に待ち伏せされ、鉄パイプで殴り殺されるところだった」と、額から血を流して学生寮に逃げ込んできたこともある。 秘書となってわずか2年後の1971年、中川の公設第一秘書となる。若くして得た信任が、内面にあった激しさに火を付けたのか。中川事務所の元関係者は「彼なりに懸命に考えて、この方法でいいんだと思い込んだのだろう。鈴木は秘書時代の13年間で変わった」とみる。 かつて政界で、党人政治家のどう猛さが政治の表舞台を突き動かした。農家出身の中川も生産者米価をめぐる自民党の方針にかみつき、党総務会でコーラのびんをたたき割り、机をひっくり返したことがある。 だが、おおらかな人柄が愛され、蛮行も大目に見られた中川に比べ、鈴木は敵をつくりすぎた。元支持者は言った。「時代も変わり、敵と見方を峻別(しゅんべつ)して、怒声で敵をたたきつぶす手法は限界に来ていた。でも、軌道修正できなかった。それが鈴木の宿命だった」 (敬称略) |