第1部 源流
オレは1万人の名前を覚えている |
| 「おおお、父さん! 母さんの病気、治ったか」「息子の就職は決まったか」−。自民党総務局長(当時)の鈴木宗男が、マチで出会った町民に次々と声を掛ける。ホテル、飲み屋、そして街頭で。その数は、数十人に及んだ。名前はもちろん、一人ひとりのプロフィルまで、正確に言い当て、あいさつされた相手を感激させた。2000年10月、根室管内中標津町内。 自ら推し進めた北方四島人道支援で、国後島に建設した発電施設。その完成式に向け、中標津空港から政府チャーター機で出発する前日の夕暮れ時だった。傍らには当時、外務省主任分析官だった側近の佐藤優(背任容疑で起訴)もいた。 「オレは1万人の支援者の名前を覚えている。1万人が10人に声を掛けてくれたら10万人。当選できるだろう」。自信がみなぎっていた。
ただ、秘書時代に鈴木が陳情を受けて即座にかけた電話番号を関係者が覚えていて、こっそり後からかけてみた。出たのは陳情とは無関係の相手だったという。「その場では『話し中だ』と言って電話を切り、周囲に『もう1本の番号を教えろ』と命じていた。記憶力をアピールするパフォーマンスの時もあった」 道開発予算など政府予算案の個所付けなどの数字も内示前にいち早く聞き込み、支持者の前でそらんじて見せた。元首相、田中角栄や竹下登から盗み取った手法だった。 「いつも後ろを振り向きながら歩いてたんだ」。秘書時代、郷里の十勝管内足寄町から上京した友人と一緒に入った食堂で、鈴木はそう語った。 田舎育ちの目に、東京は巨大な迷路。だが、マチを駆けずり回り、隅々まで知り尽くさなくては務めは果たせない。帰り道を頭にたたき込もうと、車に乗っても前を向かなかった。「相当、努力したんだろうな」。友人は痛々しく感じた。 「異能」ともいえる記憶力、そして体力。 早朝の“マラソンもうで”が新年の恒例行事だった。帯広市内の自宅から十勝護国神社など五つの神社を回り、走行距離10キロ余り。ジャージー姿で厳寒の風を切り、疾走する鈴木に付いていくことのできる者は少なかった。東京でも、早朝ジョギングを欠かさなかった。 「あんなにエネルギッシュに動き回っていて体は大丈夫なんですか」。周囲に問われて、秘書の二男、行二がこう漏らした。「今は大丈夫と思います。でも、議員をやめたら死ぬかもしれませんね」 (敬称略) |