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2005/04/02(土)
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| サヨナラ | ||
アメリカで暮らす娘からの電話はなるべくとらない。ただ、連れ合いがいないときはしょうがない。「ハーイ」と答えると、一瞬だが間があく。「ゲッ、おやじかあ」という空気が太平洋の向こう側から伝わってくる。それでいいのさ。ぼくだって、目をとじて瞼の裏に浮かぶのは母さん。 母親はハナから母親。何せ、十カ月近くも身ごもる。妊婦の難行に耐え出産の荒業をこなし、おっぱいまで供給する。身体ごと母親を実感する。男にそんなマネはできない。母は強し、ですよ。 男は父親になるのだ。「あんたの子よ」と言われ、DNA鑑定などは求めず、いさぎよくすべてを引き受けるのが父親という文化。女は身体で母になり、男はアタマで父になる。身体とアタマでは勝負にならない。男女共同参画社会でも、父親と母親の役割はちがう。 ずいぶん前から“役割”の評判はよくない。思えば、一九八○代後半には“よい子の役割”を演じてきたと訴える若者が外来に現れるようになった。なるほど、「自分らしく」「自分に素直に」というスローガンで育った世代。このあたりから家族がきずなを失いはじめたのかもしれない。その後の家庭内暴力と虐待の増加は当然のこと。 どうせ「瞼の母」。父親は母親に勝てない。おまけに、わが子は友だちみたいな父親に敬意をはらわない。ならば男は覚悟を決めて、父親の役割を果たすべきでしょ。嫌われてもいい。あの世に行って、「いいところもあったよね」と思いだしてもらえれば上等じゃないの。 今日でちょうど四百五十回。もっともらしい理屈を疑え、ネコなで声を疑え、ということでサヨナラします。長い間ありがとうございました。 (渡部正行=精神科医・札幌 ) |