《特別寄稿》
知床、世界自然遺産登録の今とこれから
山中正実 (財)知床財団統括研究員・事務局長
知床の世界自然遺産登録が決定した。しかし、その過程は平坦なものではなかったし、今後解決すべき様々な宿題も突きつけられての「登録」である。知床は日本国内ではその自然度も保護体制もまちがいなく最高の国立公園といえるが、これからはグローバルスタンダードに合致するかどうかを厳しく求められることになる。とうてい浮かれてはいられないのだ。
審査を行ったIUCN(世界自然保護連合)は、我が国の自然保護制度の弱点を見逃さなかった。海洋生態系の総合的な保全、本来の機能を果たす健全な河川の在り方、海と陸の自然の循環を象徴する存在としてのサケ科魚類の保全、等々、水域に関わる現状の改善を求める厳しい指摘が日本政府に突き付けられている。世界でも希にみる稠密(ちゅうみつ)な漁業活動が行われている我が国では、生態系保全と漁業の調整は確かに困難な側面を持っており、これが対立の図式で報道され、漁業者自身にも反発があった。しかし、豊かな海は持続的な漁業を保証するものであり、同時にきちんと生態系が守られている証拠でもある。両者は決して相反するものではない。今、海域管理計画に向けた真剣な論議が漁業者も交えて始まっている。近い将来、知床の登録の日は我が国の自然公園における海洋生態系の真の保全が始まった日として、人々の記憶に残ることになると私は確信する。河川の健全性を損なわせているダムなど河川工作物への問題意識についても、世界標準と「土建中毒国家、日本」ではあまりにかけ離れていることが、多くの場で語られつつある時代だ。今、この機会に根本的な見直しを行うことが必要だろう。豊穣の海と命溢れる森をつなぐ血管としての本来の川の姿を取り戻さなければならない。
保護と利用の調和を図ることも、これからの大きな課題だ。観光で訪れる人々は増えることが予想されるが、押し寄せる人波に自然環境が悪化し、知床の魅力の源泉である「秘境感」が失われるようなことがあってはならない。高密度に生息するヒグマをはじめ、多くの野生動物たちと人間と軋轢も増加するかもしれない。そうした懸念はあるが、私はあまり深刻には考えていない。なぜなら知床には知床国有林伐採問題など過去の大きな危機を世論のうねりの中で乗り切ってきた重い歴史があり、新たな大開発はあり得ない。また、今後、世界の厳しい目にさらされる中で、むしろ問題が顕在化した方が、現状のままでは解決できない様々な問題を突き動かし、むしろ良い方向に向かうきっかけになると考えるからだ。さらに公園管理者である環境省は、2002年改正された自然公園法の伝家の宝刀とも言うべき、「利用調整地区制度」を国内で初めて知床に適用しようとしている。これは世界の常識ではあり得ないノーコントロールの我が国の国立公園の利用に、きちんとルールを定めようとするものだ。
その根本の精神は、「自然保護=立入禁止・制限」あるいは「国立公園=観光一辺倒」といった両極の短絡的考え方ではなく、自然の価値を維持できる仕組みを作り、一定のルールを定めた上で納税者たる国民にできる限り公開しようとする姿勢、ルールを守る者にはすばらしい自然体験を保証しようとする発想である。これらのシステムによって、得難い自然体験を享受できる環境がきちんと保全され、次にそこを訪れる人に対しても、末永く平等に提供されることが期待できる。
国立公園に隣接した観光拠点の町にとっても、この登録は大きなチャンスであろう。それは冷え込んだ地域経済へのカンフル剤としての期待ばかりではならないと思う。「知床旅情」のヒットによる知床ブーム以来30年あまり。知床にはいまだ「新興温泉観光地」然としたある種落ち着かない雰囲気がある。この機会に通過型観光地から脱皮し、世界遺産の冠にふさわしいセンスある町並みやもてなしを創り上げなければならない。世界中からたくさんの人々を引きつけ、魅了し続けることができる知床へとステップアップできるかどうか、それはこれからの努力と創意工夫にかかっている。
今、世界遺産登録を契機に一気に動き始めた知床をめぐる様々な情勢。これまで見向きもしていなかった人々までも「我こそは知床のこれこれを担いたい」、「知床はこうこうあるべきだ」等々、にわか「知床評論家」が増えてきた。そして、知床と言えば予算が付くせいか、様々な役所もあれもやりたい、これもやりたいとにぎやかである。中には現状無視の思い付きに過ぎないのではないか? 一体何の意味があるのか?と言うものも珍しくない。10年前、地元斜里・羅臼両町が登録をめざして活動を始めた時、周囲が如何に冷たかったかを知る地元の者としては複雑な心境でもある。これら騒々しい動きに対してお願いしいたい。何か始める前にちょっと立ち止まって考えて下さい。それは本当に知床のためになるのですか? そして、あんまりがんばりすぎないで、と。
知床は多くの人々に秘境の夢を与え続けてきた地であり、人々の想いに支えられて知床の夢は現実となった。しかし、夢が大地に根をおろし、大樹になるにはまだまだ多くの困難を克服しなければならない。知床、それは現代に生きる我々が過去から引き継いだ遺産であり、未来から預かっている宝だ。世界の信託に応えて、知床を守り育てていく重い責任が、私たちに課せられていることを忘れてはならない。
<略歴>やまなか・まさみ
財団法人知床財団統括研究員・事務局長。1959年山口県周南市(旧 徳山市)生まれ。北大ヒグマ研究グループに所属し、ヒグマのフィールド調査を各地で行った。支笏湖周辺でのアイヌの人々に同行する冬眠穴調査は、伝統的な「穴グマ猟」の最後の記録に。北大大学院では、トドなど海獣類の研究に携わり、その後、斜里町に就職。知床自然センターの設立に関わり、知床財団に移籍。
◆ 自然遺産登録の歩み ◆
1964年 6月
知床半島が「国立公園」に指定される
1977年 3月
斜里町の「しれとこ100平方メートル運動」がスタート
1980年 3月
知床横断道路が開通
1998年 2月
斜里と羅臼の両町が、世界自然遺産登録に向けた事業費を新年度予算に盛り込む
2003年10月
政府、知床を世界自然遺産に推薦することを最終決定
2004年 1月
ユネスコ日本代表部がユネスコ本部に、知床の世界自然遺産登録を求める推薦書提出
2004年 7月
ユネスコ世界遺産委員会から委託を受けたIUCNが、現地調査を開始
2005年 2月
IUCNが、書簡を環境省に送付し、「知床の海域環境の保護レベル強化が必要」として、沿岸から1キロ以内とされている推薦海域の拡張を要求
2005年 3月
政府は関係4漁協の了解を得た上で、<1>知床の海域の管理計画策定時期を当初の「5−10年」から「3年以内」に早める<2>推薦海域を当初の「沿岸から1キロ以内」から「3キロ以内」に拡大する−とする回答書をIUCNに送付
2005年 7月
ユネスコの第29回世界遺産委員会で、知床の世界自然遺産登録が決定
詳しくはこちらから
自然遺産登録ドキュメント(2005.7.13〜2005.7.18)