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よしはら・ともこ 1970年2月4日、空知管内妹背牛町生まれ。妹背牛商高出。1992年バルセロナ、96年アトランタ五輪代表。180センチ、63キロ。パイオニア。 |
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なりた・いくみ 1976年1月1日、旭川市生まれ。旭実高出。旧姓・大懸。96年アトランタ五輪代表。173センチ、67キロ。久光製薬。 |
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ささき・みき 1976年12月15日、室蘭市生まれ。登別大谷高出。98年世界選手権代表。182センチ、76キロ。パイオニア。 |
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2大会ぶりに五輪の舞台に立つバレーボール日本女子。かつてのお家芸復活を支えたのは、吉原知子、成田郁久美、佐々木みきの道産子3人だった。それぞれに挫折と栄光を知り尽くしたベテラン3人が、再び輝くチャンスをつかんだ。
主将を任された吉原は、精神的支柱となってアテネをかけた世界最終予選でチームを引っ張った。炎のように噴き出す闘魂が、最大で17歳も年の差のあった若い選手を勇気づけた。
波乱のバレー人生だ。1992年にバルセロナ五輪に出場したが、その2年後に契約をめぐって所属していた日立と対立し、解雇された。
その後、イタリアに渡るなどチームを流転。日本では、所属チームが2度廃部する苦難にあった。
もう日本代表入りはあきらめていたが、突然の招集。不遇の時代を経て、精神的な強靱(きょうじん)さを身につけた吉原は「また五輪でメダルに挑戦できる」と心の底からわくわくしている。
成田は4年前、身を切られるような悔しさを味わった。96年にアトランタ五輪を経験し、続くシドニー五輪にはエースアタッカーとして臨むはずだった。だが、まさかの予選敗退。東京、モントリオールで金メダルに輝いた日本女子にとっては、初の屈辱だった。
足を負傷し、精神的にも疲弊した成田はコートを離れた。実家の旭川に戻り、スポーツメーカーで営業の日々。時には子どもたちを指導した。
これで逆にバレーへの情熱が再び頭をもたげた。そんな時だ。「吉原とともにチームを支えてほしい」と声が掛かったのは。今度はエースではなく、守備の要「リベロ」として。「まさか代表になれるとは思っていなかった。必死にやるだけです」
佐々木は、柳本監督が就任した日本代表とは縁がないと思っていた。かつて東洋紡の監督と選手として接したが、けんか別れのようにして佐々木がチームを飛び出したからだ。
一時は日本のエースアタッカーだった佐々木が、最終予選では慣れないスーパーサブとして活躍した。若いころだったら、気持ちが切れてしまっただろうが、バレーボールとともに歩んだ歳月が佐々木を大人にしていた。
「五輪ではメダルを取りたい」。強い決意でアテネに向かうのは佐々木だけではない。お世話になった人たちに恩返しするのは、本番でのきらめきでしかないからだ。 |
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