戦後60年 戦禍の記憶
 
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 「戦禍の記憶」第三部は、「兵士−中国編」と題し、中国に行った兵士の体験を伝える。
2005/03/11(金)
《第3部》 兵士−中国編(1)
咲間進《さくま・すすむ》さん(87)=伊達市

国際条約違反の毒ガス、煙幕に混ぜ敵兵に

戦中、戦後もほとんど知られていなかった毒ガスを用いた戦闘の一端を証言する咲間さん
「遺体に傷」偽装教わる

 私が日本最初の毒ガス部隊だった「野戦瓦斯(がす)第一三中隊」に配属されたのは、一九三九年(昭和十四年)九月。旭川で一カ月ほどガス兵の訓練を受け、中国の漢口(現・湖北省武漢市)で補充要員として合流した。

 最初のガス部隊だから、本来なら第一中隊なんだろうが、中国人が最も忌み嫌う数字が「十三」なので第一三中隊となった、という。中隊は歩兵と、馬などで武器や食料を輸送する輜重(しちょう)兵による七百七十人ほどの混成部隊だった。私は本部付けの輜重兵で、獣医将校の馬の世話などが務めだった。

 毒ガス部隊は自軍が攻めても攻めきれないときなどに投入される。歩兵が敵陣の風上に忍び寄って、ガスの入った発煙筒を敵陣手前に発射する。輜重兵は歩兵の少し後方に位置してガスの筒を歩兵に補給するのが役目だ。真夜中にガス部隊単独で行動することもあれば、味方の攻撃を支援するための作戦もあった。

 ガスは、催涙ガスや嘔吐(おうと)ガス、猛毒のイペリットなどがあり、区別するために筒に赤や黄色などの色が帯状につけられていた。毒ガスの使用は国際条約で認められておらず、煙幕に混ぜて使ったんだ。敵兵が毒ガスで死んだことも分かってはいけないから、訓練では「遺体に傷をつけろ」と教わった。

 毒ガスをまいた場所は危険だから、そこを迂回(うかい)して進軍する。惨状は見たことはないが、敵兵だけでなく住民にも犠牲は及んだと思う。

 第一三中隊には一年ほど所属した。最もつらかったのが宜昌(湖北省)の攻略。真夏で行軍中、ものすごく暑い。日射病にかかってはいけないから水を探すのだが、戦地にきれいな水なんてない。ある時、小川の水を飲もうとしたら、すぐ川上に死体が浮かんでいた。それでも飲むしかなかった。

 食料補給が途絶えると、民家を回って自分たちで調達する。拒む村人には銃剣を突きつけた。仲間三人で石灰を小麦粉と思い込んで食べようとしたこともあった。水で練っても粘りが出ず、小麦粉じゃないと分かったんだ。三人とも、人間がどうかなってたんだろうね。(聞き手・伊達支局 小野高秀)

【追想】 証言は「贖罪」
 咲間さんの右脚すねには、青くくぼんだ長さ五センチ、幅二センチほどのあざがある。旭川での訓練でイペリットの原液を塗ったあとだ。「毒ガス液が体に付いたときに落とす訓練。当時は天皇と祖国のためと耐えることができたが、今思うと、人体実験のようだった」

 毒ガス部隊の一端を言葉を選びながら語る。毒ガス使用は固く口止めされ、戦友会記念誌にも触れられていない。「亡くなった戦友がいなければ、生きて帰れなかった。贖罪(しょくざい)の意味でも真実を伝えたかった」という。