戦後60年 戦禍の記憶
 
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 「戦禍の記憶」第六部は、愛する人を戦地に送り出した女性の思いや、子供の目から見た戦中、戦後の生活を伝える。
2005/06/07(火)
《第6部》 女の思い、子供の目(1)
東晴子《あずま・はるこ》さん(71)=滝川市

炭鉱の寮で朝鮮人虐待 何度も目に

「『おい、あそこにいるぞ』と、朝鮮半島で朝鮮人を無理やりトラックに乗せてきた人の話も聞いた」と語る東晴子さん
恐怖で身がこわばる

 戦時中、夕張の炭鉱に強制連行された朝鮮人労働者の寮に、私の家族は住んでいた。朝鮮人の虐待を何度も見た。

 私は東京で生まれた。母寿美(すみ)の話では、父の新井幸雄は、東京農大を出て米屋をしていたが、農政を批判する建白書を農林大臣に送ったため、特高(特別高等警察)からにらまれ、家の周囲を常に見張られていた。一九四一年(昭和十六年)六月、当時、最も需要があった炭鉱で働くため、夕張に移住した。私は夕張第二小の二年生に転入した。

 父は大学卒を隠し、坑内で働いたが、体をこわして、第二十協和寮の炊事係になった。寮生は全員朝鮮人。朝鮮半島から連れて来られた若い男性ばかり。寮は朝鮮人を詰め込んだ部屋の並ぶ棟と廊下で結ばれた事務室、寮長室、調理場の棟があった。事務室には寮長と助手、朝鮮人の通訳が詰めていた。

 寮生が「今日は熱が高くて働きに行けない」と申し出ると、寮長の前で助手が「熱を下げてやるぞ」と、裸にして水風呂に全身を沈めた。「アイゴー、アイゴー」と悲しい声が響く。「具合が悪い」と仕事を休むと、その日は食事が一切与えられない。寮生は近所のごみ捨て場に行き、石炭ストーブから出た灰にまみれたわずかな野菜くずなどを口に運んでいた。

 「はれて痛くて歩けない」と、真っ赤にはれて倍の太さになったひざを見せると、「中にたまっているものを出してやる」と、長くて太い五寸くぎを金づちで打ち込んだ。

 虐待する時、大声で泣き叫ばないよう、炭鉱のベルトコンベヤーに使うベルトで作られた硬いスリッパを無理やり口に押し込み、むちで殴る、ける…。私は身を硬くして事務室前の廊下を走り抜け、学校に通った。

 四五年八月十五日、終戦の夜、寮長と助手が父の所に来て「朝鮮人に追われている。殺されるから助けてくれ」という。父は黙って押し入れの隅にかくまった。数分後、「寮長は来なかったか」と大勢の朝鮮人が来たが、父は平然としていた。小学六年生の私は、家に上がって押し入れを開けられたらどうしようと、がたがた震えていた。(聞き手・編集委員 上村英生)

【追想】 戦争絶対ダメ
 東さんは、話の途中、つらくなって言いよどんだ。「こんな話、夫にもしたことがない。今、戦争に向かいつつある雰囲気が感じられ、戦争は絶対すべきでないと言いたい」と続けた。

 戦後、看護師になり、夕張炭鉱病院に勤めた。趣味の水泳で道水泳指導員会の理事長になり、現在も同会副会長。「本当にこうやって過ごせる一日一日を大切に思う。疫病や栄養失調でクラスの友達も随分亡くなった中で、乗り越えてきた自分の力も褒めてやりたい」と、顔を上げた。