戦後60年 戦禍の記憶
 
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2005/06/09(木)
《第6部》 女の思い、子供の目(3)
猪俣清子《いのまた・きよこ》さん(78)=釧路市

兵隊は死ぬ時、母さんや嫁さんの名を口にする

兄の菊松さんが残した押し花を前に、思い出を語る猪俣清子さん
苦しそうに語った兄

  一九四一年(昭和十六年)三月、釧路管内弟子屈町に住んでいた当時、小学校から自宅に帰ると、「おお、清子」と声をかけられた。そこには、旧満州(現中国東北地方)に出征していた兄の青木菊松がいた。私は「わあ、兄ちゃんが帰ってきたー」と、思わず叫んでいた。

 二度召集された兄が家に戻っていた四カ月間のつかの間の幸せ。母子家庭で育った私にとって、九つ年上の兄は父親のような存在。兄と私、それに弟を育てるため、母は昼も夜も家で和裁の仕事をした。私は母に甘えられない分、兄に「一緒に寝よう」などと言って、いつもくっついていた。

 もともと兄は国鉄で保線の仕事をしたが、最初の召集で三八年十二月、旭川の第七師団へ。兄の部隊は、三九年に起きたノモンハン事件などに参加した。軍用トラックの運転をしていた兄は、夜道で車の外にいた戦友を旧ソ連軍の銃撃で亡くし、遺体を抱きしめて泣いたという。「なあ清子。兵隊は死ぬ時、天皇陛下万歳なんて言わない。みんなお母さんや、お嫁さんの名前を口にするんだ」。兄は満州の花で作った押し花を入れたノートを私に手渡した後、苦しげな表情で満州時代を振り返った。

 兄は四一年七月に再召集。見送りに行った駅で「清子、お母ちゃんを大切にな。頼むよ」と何度も私に言った。兄は二十三歳、私は十四歳。夏の暑い日だった。

 翌年、兄はアリューシャン列島のアッツ島守備隊に。兄から母あてに、四三年三月十八日付のはがきが届いた。「軍での自分の貯金通帳の番号を書いたので、控えておいてください」。この時もう、兄は自分の死を覚悟していたのだろう。

 アッツ島の守備隊二千六百人が玉砕したのは、五月二十九日。三十日の未明、自宅で母と私は、兄の気配を感じて目覚めた。気配は居間の仏壇の前で消えた。戦死公報が届いたのは、それから間もなくだった。

 八八年の七月、私は政府派遣のアリューシャン列島慰霊巡拝団に参加し、アッツ島を訪れた。切り立つ岩に残る氷雪の白さ、海岸沿いに咲くルピナスの青さが目に染みた。母の位牌(いはい)を抱いた私は「兄ちゃん、死ぬまでに本当に苦しかったろうね。今まで一人にしてごめんね」と胸の中で叫んでいた。(聞き手・釧路報道部 大場俊英)

【追想】 悔しさ伝える
 猪俣さんは二○○○年から、釧路市大楽毛小でボランティア講話会を開き、戦争体験を児童たちに伝えている。兄が戦死した後、周囲から「名誉の戦死、おめでとうございます」と言われた時の悔しさ、物資が不足した戦後の生活の苦労などを語っている。「昔は生きたくても、生きられない人がたくさんいた。どんなに命が大切かを子供たちに教えていきたい」と話す。