戦後60年 戦禍の記憶
 
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2005/08/03(水)
《第8部》 引き揚げ(3)
宮本ナツ《みやもと・なつ》さん(91)=札幌市

2歳8カ月の娘の遺骨 空き缶に入れ逃避行

弱い者からまず犠牲

 かわいいはるみが、焼かれてしまう。二歳八カ月の娘の死は、とうてい受け入れられなかった。動かない小さな体を抱きしめ、逃げ出そうとしたが、引き揚げ仲間の日本人に連れ戻された。錯乱状態だったのだろう。小さなお骨になったはるみを空き缶に入れて腰にぶら下げ、また歩き出すしかなかった。

 「赤い夕陽(ひ)の満州に…」という、当時の流行歌の歌詞につられ、広大な大地を見てみたいと、結婚した姉のいる旧満州(現中国東北地方)に足を向けたのは、一九四一年(昭和十六年)五月。家族は、病弱な母の看病と家事で嫁ぐ様子もない二十代半ばの私を心配し、私は一カ月ほどの気分転換のつもりだった。

「私が行くまで昼寝をして待っていて」と今も心の中で娘に語りかける宮本さん
 長期に家を空ける知人に留守番を頼まれるなどして満州滞在が長引くうち、母が亡くなった。札幌に帰って母の死を確認するのが怖く、満州にとどまり、知人の紹介で四二年に結婚。翌年、はるみを授かった。妊娠中、胸膜を悪くして入院、療養しながら出産した。

 終戦時は、夫の仕事で鄭州の北西の焦作(チャオツオ)(河南省)にいた。夫は残務整理があり、娘と二人で五百人ほどの引き揚げ団に入った。貨車に乗り、夜はほかの人と足と頭を互い違いにして横になった。食べ物は一日に飯ごう一杯のすいとん。中国人が、くしに刺して焼いた鶏肉を売りに来て、はるみは「あーちゃん(お母さん)ピーピー(鶏)」とねだるが、お金がなくて買えない。他の子供が食べた鶏の骨をしゃぶる、はるみがふびんだった。

 一週間ほど足止めを食っていると、ようやく残務整理を終えた夫と合流した。列車があるときは乗り、線路が破壊されていれば歩く。逃避行のなかで、はるみが麻疹(ましん)にかかった。医者もおらず、薬もない。日に日に弱り食べ物を受け付けないのに、私の乳首を口にくわえる。一年余りで離乳させ、おっぱいが出ないことを心から悔やんだ。一週間ほどで、静かに逝ってしまった。

 はるみの骨を入れた缶を腰に下げて歩いていると、貴重品だと思ったのか、中国人の窃盗団がかまを持って襲ってくる。休憩すると襲われるので、トイレ休憩すらなく、垂れ流す人も多かった。体の弱い者から先に落ちこぼれ、子供が八人死んだ日もあった。出発から半年後、どうにか上海にたどり着き、日本の土を踏んだ。(聞き手・報道本部 小川郁子)

【追想】 私が行くまで…
 宮本さんは十数年前に札幌市内に墓所を買い、はるみさんを思って石碑に「母のゆくその日くるまでいとし子よ 草のしとねに眠りつづけよ」と、自作の歌を彫った。宮本さんは「生きていれば六十すぎ。でもあの子は二歳八カ月から育ってくれない」という。

 戦後は夫の実家の茨城県で農業を営み、夫を亡くした四年ほど前に故郷の札幌に移り住んだ。