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| 2006/10/17 (火) 朝刊 |
| <1> 風化 慰霊祭存続も危うく |
| 密封された新鉱第1立て坑跡に花をささげる笠嶋一さん=16日 | |
南北に長い夕張市の、やや南寄りに位置する清水沢清陵町。新鉱の坑内員だった笠嶋一さん(77)は快晴の十六日、同町住宅街から一キロほど離れた国有林内に残る当時の坑口跡に、例年通り一人で花を供えた。「事故の数日前から、小規模なガス突出が相次いでいたんだ」。高ぶる思いに、言葉が途切れた。
笠嶋さんは秋田県出身。地元の石油採掘会社で一年間働いた後の四八年、北炭に勤めていたおじを頼って夕張へ渡った。月給は前の会社が五百七十円、北炭は一万円。景気の良さに驚いた。
胸騒ぎが的中
七五年三月、営業出炭を始める直前の夕張新鉱へ配属された。労組専従と職場復帰を繰り返し、迎えたその日。左手を打撲して仕事を離れ、病院からの帰り道、突然降り始めたアラレに胸騒ぎがした。「朝は天気が良かったのに。気圧が急変したらガスが出る」。帰宅して事故の一報を聞き、すぐ会社に向かった。
新鉱の北側坑道で、大規模なガス突出、次いで火災が発生していた。三十四人の死亡が確認され、救護に向かった十人を含む五十九人も帰って来なかった。
「手のけががなければ、私もあの現場で働いていた。だから毎年、仲間に花を手向けずにいられないのさ」。笠嶋さんはその後、新鉱労組の解散記念誌や夕張市史の編さんに携わるなど、事故を後世に伝える仕事へ生涯をささげてきた。
かつて大小二十四の炭鉱を数え、十一万七千人が暮らした炭都・夕張も、事故当時は北炭系の夕張新鉱と真谷地炭鉱に、三菱南大夕張炭鉱を加えた三鉱に減っていた。その中で夕張新鉱は、北炭グループが企業の存亡をかけて開鉱、最新鋭の機材をそろえた「ヤマ」だった。
無理たたった
「国から『生産計画を達成できなければ、補助金を打ち切る』と圧力をかけられ、会社は無理をしていた。坑道が地圧でつぶれ、(石炭を運ぶ)炭車が通れなくなったら、レール部分を掘り下げる応急措置で生産を続けた」
事故直前に言い渡された臨時の配置転換で危うく難を逃れ、後に市議(共産党)を務めた森谷猛さん(72)は、こう証言する。消火のための注水で水没した新鉱は事故の翌八二年、正式に閉山。約二千人が職を失い、地域に大きな打撃を与えた。
事故の慰霊碑は、清陵町の住宅街と坑口を結んだ通洞口(トンネル)のかたわらに立っている。地元町内会の北炭OBたちでつくる「碑を守る会」が、八月のお盆時期にここで慰霊祭を営んできた。
「守る会」会長の米沢薫さん(79)は「会員の高齢化に加え、訪れる遺族も十五、六軒に減った。慰霊行事は、そろそろ中止せざるを得ないかもしれません」と話す。癒やしようのない傷を街に残した悲劇の記憶が、風化しようとしている。
◇
一九八一年十月十六日、九十三人が犠牲となった北炭夕張新鉱ガス突出事故の発生から、二十五年の歳月が流れた。惨事は夕張市からの北炭全面撤退につながり、基幹産業を失った同市が、今日の財政破たんを迎える遠因となった。四半世紀の時を超え、なお地域に残る傷跡と、関係者の思いをたどってみる。苦境を乗り越える勇気を、もう一度思い起こすために。
(報道本部の斉川誠太郎、古田佳之が担当し、8回連載しました) |
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